2025.4.14.Mon
今日のおじさん語録
「自信とは、物事の本質を理解していないときに現れるものだ。/ウディ・アレン」
『ぼくのおじさん』<br />
インタビュー
25
連載/『ぼくのおじさん』 インタビュー

風のようなふたり。
立木義浩と菊池武夫は
どうしてこんなに
カッコいいんだろう?

撮影/当山礼子
文/山下英介

写真家・立木義浩とデザイナー・菊池武夫。60年以上にわたって第一線で活躍し続けるふたりのレジェンド対談・・・なんて常套句は必要なし! 理屈抜きにカッコよくて憧れちゃうふたりのツーショットを撮らせてほしい! そしてふたりにゆっくり語り合ってもらいたい! ただそれだけの企画です。そんな舞台に「ぼくのおじさん」が用意したのは、1960年に創業した伝説のイタリアンレストラン「キャンティ」。本日の前菜は当山礼子さんが撮り下ろした瑞々しい写真の数々。そしてメインディッシュは熟成を極めたふたりのトークです。さあ、じっくりとご賞味あれ。

ジャズ喫茶で出会った
ふたつの才能

今回の撮影は、東京・飯倉にあるイタリアンレストラン「キャンティ 飯倉片町本店」で行われた。戦後東京のファッションカルチャーはまさしくこの場所で、彼らのようなクリエイターたちによって生み出されてきたんだ! このお店についても、ぜひ深掘りしてみたいと思う。

立木 今日はこんな場所まで呼び出して、前回よりはちょっと頑張ったな(笑)。この皿の模様とか、俺が二十代のときから全く変わってないよ。

菊池 ああ、全く変わっていないね。

立木 このあたり(飯倉)にも大きな施設ができちゃったし、昔の空気を残しているのは本当にここだけになっちゃったな。

わざわざ伝説的なイタリアンレストラン「キャンティ」までお呼びしましたが、実は特段テーマもなにも設けてなくて、ただただカッコよすぎるふたりのツーショットを撮って、対談してもらいたかっただけなんですよ(笑)。どうして立木さんとタケ先生はこんなにカッコいいんだろう?って。

菊池 タッちゃんは若いときから全然変わらないね。

もともとおふたりの出会いはどこだったんですか?

立木 俺が勤めていたアドセンター(新宿にあったデザイン企画会社)のすぐそばにあった「キーヨ」っていうジャズ喫茶だね。その頃の俺はほぼ「キーヨ」にいて、仕事が入るとそこに電話がかかってくるというシステムをつくっていたから(笑)。

ジャズ喫茶の常連同士だったと。

菊池 ぼくは当時まだ学生で無名だったんですが、ひとりで通っていました。タッちゃんはすでに新進気鋭の写真家としてメディアに出始めていたので、「ああ、この人カッコいいなあ」なんて思ってましたね。

立木 でも学生のときから目立っていたんじゃない。もうすでに洋服の仕事はしてたんだっけ?

菊池 いや、まだ何もしてない。自分の方向性がわからないから絵の学校(文化学院美術科)に通っていたんです。

立木 そんなときに「週刊平凡」という雑誌でウィークリーファッションの連載が始まったから、彼にモデルになってもらったんだよね。

菊池 当時から洋服は好きでしたけど、自分でデザインするなんて発想はなかったんです。それがタッちゃんに撮られることで「あれ、もしかしたら進む道はこれしかないのかな?」という気持ちが芽生えたんですよ。

立木さんとの出会いによって、ファッションの世界に導かれたんですね。

立木 日本のファッションが幼かった時代、上の世代のデザイナーは「VOGUE」や「Harper’s  BAZAAR」なんかを航空便で買って真似するようなヤツが一番売れていたんだよね。それに対して俺たちの世代ではジャズの潮流がわーっときてたから、時代の先端をいってたかもわかんないね。

立木義浩さんは1937年徳島県生まれ。1958年に堀内誠一さんが設立に携わったデザイン企画会社「アドセンター」に入社し、社員カメラマンとして勤務。1969年にフリーランスに転身後は、出版、広告の垣根を超えてあらゆるメディアで活躍する。今もなお毎日シャッターを切り続ける生きる伝説は、プロフィールを書き連ねるだけで膨大な文字数になってしまうので、大幅に割愛!

菊池 ジャズ時代ですよ。我々の仲間はタッちゃんのことを日本のジェリー・マリガンと呼んでたからね(笑)。

立木 それいいね(笑)。当時は仲間みんなで楽器を借りてきて、音も出せないのに写真だけ撮ってたな。そういえばアート・ブレーキーが初来日する前に(1961年)写真を見たら、丈の短いサイドベンツのジャケットにピチピチのパンツを合わせて、足元はブーツだった。カッコいいけどそんなの売ってないから、仲間3人でわざわざつくって来日公演に行ったけど、あの頃はジロジロ見られたね。

菊池 あの頃はいい靴がなくて大変だったよね。

立木 でもどっかの靴屋でつくったんだよ。サイドにジッパーをつけて。どうしてそんな金があったのかがわからない。

でも、立木さんは当時からバリバリに稼いでおられたのでは?

立木 いやいや、会社の給料ってあんた、見事に無惨なもんだよ? 毎日会社から出るときは社長にお金借りてたもん。

かつてデザイナーの塚野丞次さんをインタビューしたとき、当時の立木さんはたくさんの若い連中を食わせていたと聞きました(笑)。

立木 だって金持ってないヤツばかり集まるんだもん(笑)。だからそこに行けば俺のツケで誰でもメシが食えるような安くて美味い店があったんだけど、社長に借りたカネで賄ってたね。塚野さんは銀座でバーテンやってたとき「キーヨ」に来てたんだけど、端っこで寂しそうにしてたから声をかけたら懐いてきたね(笑)。

昔から立木さんのまわりには、たくさんの人が集まってきたんですね。

菊池 すごく魅力あるよね。

〝カッコいいリアリティ〟を
大切にしてきた

「キーヨ」での出会い以降、ふたりは友達付き合いをされるようになったんですか?

菊池 いや、それは全くないですね。飲み歩いたりもしたことも一度もない。

あ、そうなんですか?

立木 俺も彼のお店に行ったことすらない。業界の仲間としてお互いの活動を見続けているけど、そういう関係ではないよね。でも酔ってたときは親友って言ったことがあるかもわかんない(笑)。

タケ先生のインタビューを拝見すると、いつも立木さんの名前が出てくるので、それは意外だなあ。

菊池 今までいろんな写真家と知り合いになりましたけど、立木さんの撮る写真が一番私のデザインの世界にピタリとハマるんですよ。

立木 10年くらい前、どっかの雑誌に頼まれてスタジオで撮ったよね?

え〜と、それはぼくの仕事ですね(笑)。

立木 犯人はお主か(笑)。

菊池さんから見て、立木さんの写真の魅力ってなんですか?

菊池 なんて言ったらいいんだろう・・・。アートでも学問でもそういう人はいると思うんですけど、タッちゃんは自分の持っている人間性や生活について考えていることを、写真の中に写し込む人なんですよね。写真家として撮るというよりも、もっとリアリティのある世界を抜き取ってるんですが、それが普通じゃなくてすっごくカッコいい。デビュー作の『舌出し天使』(1965年)からすでにそうだったんですが、当時の写真家はああいうアイデアは全く持っていなかったですよ。

菊池武夫さんは1939年東京生まれ。暁星高校を卒業後、文化学院美術科を経てデザイナーの道へ。1970年に株式会社ビギを設立、1975年にはメンズビギをスタートさせ、社会現象的な人気を集める。1984年にワールドに移籍後は自身の名前を冠したタケオキクチを設立し、今もなおそのクリエイションに携わり続ける。立木さんと同様に、プロフィールは大幅に割愛!
〝リアリティ〟という言葉は、タケ先生がずっと大切にされてきたことでもありますよね。

菊池 洋服をつくるようになって以来、絶対に自分にとって身近に感じること以外はデザインしたくないと思ってきました。

立木 それはいいよね。カメラマンはさすがに「撮りたくない」とは言えないからね(笑)。でもデザイナーはひとつの魂として「やりたくないことはやらない」と言い切れる。本当ならそれが一番いいんだけどさ。

菊池 でも作品は全部一貫してるじゃないですか。

立木 オファーされたら向こうの意向は聞かないというか、逆に巻き込んじゃうからね(笑)。

そんなに気が合ってるのに一緒にお仕事はしてこなかったという。その関係もまたすごいですね。

菊池 あの時代に一緒にいたということだよね。

立木 あの時代にクリエイティブの仕事をやってた人はみんな友達って感じがするよ。

菊池 本当にしますよね。

その〝友達〟の代表格って誰なんですか? ふたりと同じくらいカッコいい人っていますか?

立木 カッコいいってのは、見栄えがどうということじゃなくて、なにかに情熱を傾けていて、そのエネルギーがグイグイ来ているようなヤツのことだよね。そういう意味ではパパスの荒牧太郎なんて、相当頑固なヤツだったな。あんなに自分の趣味だけで洋服をつくって、よくあれだけ売れたなって。

イメージに捉われず
風のように生きろ

タケ先生にとっては、たとえば松田光弘さんや高田賢三さんのような世代の近いデザイナーさんはライバルっていう感覚なんですか? 

菊池 私がデザイナーになった頃はコシノジュンコさんが賞を獲りまくってバリバリだったし、意識はしましたよね。ライバルと思ったことはないけど。

立木 この世代のデザイナーたちが戦後日本のファッションを引っ張ったわけだからね。それまでも重鎮はいたけど、さほど若者にはウケていなかったもん。

年上の世代に見本がいなかったということなんですかね?

立木 そんなことはないけど、世間の脚光を浴びているヤツらの裏には、もっとすごいヤツらがいるってことなんだよ。あんまりテレビや雑誌には出ていないけど、会ってみると深い魂を持っているようなヤツらがさ。

立木さんもタケ先生も、そういう才能のひとりであり、その後も若い才能を見出し続けてきたわけですよね。1980年代のBuffalo(英国のクリエイティブ集団)しかり、1990年代の浅野忠信さんしかり。

菊池 洋服の世界ではそうかもしれない。顔がいいとかスタイルがいいとかじゃなくて、エネルギーが体から滲みでているような人たちを探して、ぼくの洋服を着てもらいました。プロのモデルさんならどの洋服を着てもらってもカッコいいんですが、ぼくは〝これしか似合わないけど、ものすごくカッコよくなる〟みたいな人をできる限り選んできましたから。

立木 でも、得てしてそういうヤツって、モデルみたいなことをしたがらないじゃない。それをなんとか口説いて出てもらうんだけど、だからこそそこにはちょっとした気恥ずかしさというか、プロのモデルにはない〝含羞(がんしゅう)〟が生まれるんだよね。見ているヤツがそれをわかんなくちゃダメなんだけど。

立木さんの『舌出し天使』にはプロのモデルさんが登場していますが、やはり〝含羞(がんしゅう)〟みたいなものがありますよね。あの作品はどうやって生まれたんですか?

立木 あの作品はオファーの仕事じゃなくて、その場の空気感を大切にしながら一緒につくった作品だから。当時は売れたり認められるなんて思いもしなかったし、お金もないからロケは全部許可なしで、ほぼスタイリストもいなかった。そんな写真を撮るときに大切なのは反応だよね。こっちが「この椅子に座ってくれる?」って言ったときに、この椅子だったらどう座るかを一瞬で考えてくれる子がいいよね。いちいち「ここで足組んで」とか教えなくちゃいけないようなのはバカバカしいでしょう(笑)?

菊池 それがカッコいいよね。

そういえば立木さんは、現場でちょこちょこヘアメイクやスタイリストさんが撮影を止めて直しを入れたりするのを嫌いますよね?

 

立木 本当に必要だったら仕方ないけど、あれには「私もいるのよ」みたいな意味もあるじゃない。そういうの、いらない! ちょっと乱れたって、それがよかったりするんだもん。昔カトリーヌ・ドヌーヴが日本に来たとき、ヘアーを田中親(たなかちかし。戦後日本のトップヘアアーティスト)が仰せ付かったんだけど、彼は何を考えたか、大女優を深くうつむかせて首から頭にブラッシングさせただけ。顔を覆った髪の毛は、ドヌーヴが起き上がる反動でフンワリとできあがって、彼女も納得で「セボン!」。つまり触らないこともギャラのうちなんだよね。あらかじめイメージをつくりすぎて、現場でその通りいかなくて大汗をかいてたりするヤツもいるけど、固まっちゃうとダメだね。イメージを捨てなくちゃいけないときもあるんだから。

菊池 すごくわかる。

立木 みんな自分のイメージが正義だし、すごいと思ってるじゃん。でも実際は世の中に放り込んでみたらなんでもないことがほとんどだから、そんなときはすぐに変更すればいいわけさ。

ぼくもイメージに囚われがちですね・・・。

立木 編集者は不安だからいちいち決めたがるけど、なんだかできた作品には必死でやった感じが現れちゃってるよ。現場の中で驚いたり喜んだりしながら空気を感じて仕事ができたら、もっと面白い。やっぱり、編集者も風のように、じゃない?

それがなかなか難しいんですよ。

立木 難しいと思った瞬間に止まっちゃうのよ。

菊池 ぼくも、立木さんが考えていることと全く同じようなことを、洋服の世界でやりたいと思ってきました。型にハマったようなことを言われるのがすごく好きじゃない。

立木 このスタイルを見ればひと目でわかるよね(笑)。「こうあらねばならない」なんて言われたら後ろ向いてどっか行っちゃう。でも念の為言っておくと「あらねばならない」の世界も社会には必要だからね。

「風のように」生きるには、覚悟と実力も必要ですもんね。

立木 多少はないとダメだよね。でも少しばかり長いこと生きてきて、まあまあになったからって、偉そうに自慢したらアホみたいでしょ。だからなるべくとぼけてたほうがいいよね。自慢話は5分と聞いていたくないけど、失敗の話は楽しく言えば人が集まってくる(笑)。

立木さんでも失敗はあるんですか?

立木 失敗がないと進歩もないでしょ? 俺たちは馬じゃないから、生まれてすぐに立つってわけにいかないんだし。オギャーと生まれたらすぐ立って散歩してくるわ、みたいなヤツがいたら会ってみたいよ。

(笑)タケ先生にも失敗はありますか?

菊池 いや、そもそもぼくは満足したことがあまりないから、ほぼ失敗ですよ。昔は自分がやったショーのビデオなんて、2〜3ヶ月は目を通せなかったから。

立木 文学の人もそうだよね。書店で自分の本の表紙が見えたらすごく嫌だって人もいる。売れたって聞くと嬉しくなっちゃうんだけど(笑)。

菊池 ぼくにもやっぱりイケイケの時期はありましたよ。ビギを立ち上げたときなんて、まわりにそういう店はなかったし、つくってる服も今までのものとは全く違っていましたから。そういえば1970年の10月に原宿でビギのお店をつくったらすぐに香港のバイヤーが来てくれて、ぼくがつくった服を全部買ってくれた。その服をブルース・リーが買って『燃えよドラゴン』で着てくれたんです。後から映画を観た人に教えてもらったんですが。

立木 無理にお膳立てしたわけじゃないよね(笑)?

菊池 全然会ってもいない。こっちは全然知らなかったから。

立木 それは俺が撮りに行けばよかったな(笑)! でも、そんなこと誰も知らないんじゃないの?

菊池 最近はちらほらと語られるようになったみたいだけど、ほとんど知らないよね。

立木 じゃあここは大きい文字で書いておけよ(笑)。

でもタケ先生の服は、単なる人気者じゃなくて、そういう強烈なエネルギーをもつ人たちに愛されてきた歴史がありますよね。ショーケン(萩原健一)さん然り。

菊池 そうだね。選んでくれている感覚があるからすごく嬉しい。

立木 選ばれる光栄ってあるよね。でも長くやってると「コイツには選ばれたくない」ってのもあるけどね(笑)。

菊池 それは確かにあるかもしれない(笑)。

〝下り坂〟の人間にこそ
本当の魅力が宿る

立木さんも昔、いわゆるイケイケの人気者は撮りたくないなって言ってましたよね?

立木 要するにイケイケって粉飾して傲慢・不遜。早い話が高慢ちきな輩はごめんだね。でもずっとやってると誰だって人気の峠は落ちるけど、実力は光ってきてるっていう状態になるよね? そして頭のいいヤツだったら、「俺、これから下り坂なんだな」ってのは自覚する。そのときが一番いいんだよ。ただ嬉しいだけじゃなくて、奥に深い悲しみというか〝含羞〟が感じられるようになるから。

やはり〝含羞〟ですね。

立木 〝含羞〟こそが人間の品格だからな。お主も気をつけなよ。

いや、日々自分のダメさ加減に打ちのめされてますから(笑)。

立木 お主はワガママだからな。カメラマンにわざわざつまらないアイデアを伝えに来たりする。始まったら触ってくるなって。そんなんでカメラマンが調子よく撮れると思うか?

うう・・・グサっときますけど、ありがたいお言葉です!

立木 これは愛のムチだからな。今は怒ったら仕事が来なくなっちゃう時代だけど(笑)。

タケ先生は怒ることってあるんですか?

菊池 怒った記憶はあまりないですね。責任って自分にしかないと思うから。

立木 でもさ、あなたのまわりで働いている感度の高いヤツは、何も言われないことが身に沁みちゃうから、失敗したことは自分でわかるんだろうね。ある意味何も言われないほうがもっと怖い。だから俺のほうが優しいと思わない(笑)?

そうかもしれません(笑)。実は今日撮影してくれている当山礼子さんも、今ファッション業界では引っ張りだこの人気者なんですよ。

立木 じゃあ調子に乗ってんね(笑)。でもさ、あなたのことは知らないけど、若いフォトグラファーってオファーの仕事ばっかりじゃない。

当山 そうですね(苦笑)。

立木 それで「オファーじゃなくて自分の好きな写真ってなんなの? 撮ってる?」って聞いたときに、その倉庫は空っぽだったりするのよ。だから編集者はフォトグラファーに、何を撮りたくてカメラマンやってんだということは聞いたほうがいい。そして何か撮らせなきゃ。一度でいいよ。一度でわかるヤツじゃないとやらないから。でもあなたは自分の写真を撮ってるよね。

素敵な作品を撮られていますよ!

YouTubeなんて
見るんですか?

お二方は出会って約60年ということになりますが、お互いの印象はどうですか?

立木 俺も彼もちゃんと歳取ってるから、脱げば生傷ばかりだよ。よく元気でやってるなって感じだよ。

菊池 ぼくは今まで会社をつくったり辞めたり、人にたくさん迷惑をかけてワガママに生きてきたけど、それでも自分のやりたいことはまだほとんどやれてないですけどね。

ええ、そうなんですか? すべてを手に入れたようにも思えますけど(笑)。

菊池 めちゃくちゃ頑張ってきたけど、自分のやろうとしたことの10分の1も実現してませんから。ビジネスについてはキチッとやってきたつもりですが、それは中学生の頃に親父が破産して、住む家がなくなった経験があるからなんですよね。

菊地さんのお父様というのが・・・。

菊池 コテコテの右翼だったんですが、12人兄弟だったから破産したときは大変でね。だからぼくは子供心に、親父のマネだけはしないぞって心に誓ったんです。麻布十番にアトリエを構えた頃は〝麻布のジューイッシュ〟なんて揶揄されたこともあるんですが(苦笑)。

立木 とはいえ、好きでやってるわけではあるよね。論語風にいうと「好き」の上があってさ、それは楽しんでやっているんだよ。だから全然心配しなくていいよ。100歳になってもここに座ってなんか言ってるから(笑)。

菊池 そう。心配はしてほしくない。多分ぼくが元気なのは、仕事してるから。辞めたら終わっちゃうもん。

立木 人に会っていないとね。

菊池 あとは喋ること。

立木 それとわけわかんない若いヤツとは、時々会っておいたほうがいいんだよね。細かい情報は必要ないけど、ポンと返ってくることがあるから。それとヤツらは音楽の趣味が全然違うでしょ? だから俺のスマホに今聴くべき曲を入れてもらったりさ。

菊池 ぼくも古い音楽はすっかり忘れちゃって、新しい音楽に反応しちゃいますね。今はすごく有名になったYOASOBIとかBTSなんてカッコいいもんね。今までの音楽とは完成度が違ってきて、そのことがすごく嬉しいんです。

立木 音楽の世界が一番移り変わりが激しいよね。だから日本人としては、そろそろ演歌も変わってるんじゃないかと思って聴いてみたら、やっぱりその世界は俺たちの時代の歌手が引き下がんないんだ(笑)。あれはある意味すごいよね。

菊池 ぼくも演歌は好きですよ。あれを演歌じゃないアレンジにしたら、すごくカッコいいと思うんだけど。

立木 ちあきなおみなんてすごかったからね。彼女はオファーで何回か撮ったけど、もっと個人的に自分の写真を撮らせてもらえばよかったと思うよ。

YouTubeはどうですか?

菊池 最初だけちょっと見たけど、今は見ないかな。時々は面白い動画があるけど、あれをずっと見ていられる神経がよくわからないというか・・・めんどくさい。

(笑)立木さんもさすがに見ないですよね? 出演依頼とかも来るでしょうし。

立木 友達に誘われることもあるけど、バカバカしいよね。だいたいは俺のこと見て見てって言ってるだけのことでしょ? いい歳してそれはちょっとな。だから、お知らせのときだけ使うことにしている。

おふたりが今注目している人っているんですか?

立木 ジェーン・スーさんなんて面白いじゃない。

菊池 ぼくは浅野忠信さんに再び注目していますね。

90年代半ば、タケオキクチの顔として映画にも登場していましたね。

菊池 その頃は若さの魅力だったんですが、今は役者の顔になって、すごくカッコよくなってきた。風貌そのものが変わってきたのかわからないけど、顔だけをとっても特別な人に見えるんですよね。若い俳優さんよりずっといい。

立木 役者さんには表には出していない本質があるからね。事務所はコントロールしようとするけど、それは人間の根底にあるものだから、ときどき止めようもなくフワッと出てきたりするんだ。以前俺が真面目な女性誌の表紙で、若くてやんちゃな女優さんを撮ったことがあるんだけど、そのとき彼女は途中で飽きちゃったのか、ふとブラウスのボタンを外してそこにスッと手を入れたんだよ。それは遊んでるんだけど、「あんたはちゃんと撮れんの?」ってことでもあるじゃん。そんなことはもう二度となかったけど、その撮影は面白かったね。

ボツになったもののなかに、本質的なものがあったりするんですね。

立木 信用するクリエイターがいたら、そういうのをちょっとはやらせたほうが面白いんじゃない?

菊池 絵描きはよく自画像を描くけど、タッちゃんは自画像って撮らないんですか?

立木 自分の顔を見ているヒマはない(笑)。自分が大好きなカメラマンもいるけどね。

タケ先生は洋服をつくるとき、自分をイメージされるんですか? 自分をミューズにするタイプのデザイナーも多いと思うんですが。

菊池 それは全然ない。自分なりの形になるようにしないとダメだとは思いますが、自分に似合う服というわけでもないですしね。だってぼくの理想の顔は芥川龍之介なんですから(笑)。一時期は太ってまん丸だったし、本当に写真が嫌だったな。若い頃はまだしも、途中から諦めて、自分はなるべく除外。ブランド名が自分の名前なのも、本当はすっごく違和感があったんですよ。

そうだったんですか?

菊池 でも外国人から見ると、自分の表現に自分の名前を付けないほうが違和感を感じるらしくて、それでTAKEO KIKUCHIなんですよ。

それは意外ですね。

もっと俺たちを自由にさせろ!

おふたりが戦友意識を持っているのは、やっぱり競争の激しい時代だったからなんですかね?

立木 当時はまだ偏見に満ち満ちた時代だったからね。海の向こうじゃ白人と黒人は違うトイレだったんだから。写真業界でもファッション業界でも、差別の歴史に立ち向かっていったんだよね。

菊池 ぼくがかつて海外でファッションショーをやったときは、半数以上のジャーナリストに貶されたことがありますよ。今は貶す人なんてほとんどいませんけどね。だからこそやってやろうって気にもなりました。ル・モンドだったか忘れたけど、わざわざ「小さなケンゾーに次ぐ日本人デザイナー」みたいなキャッチを付けられるんだから。あのときはムカっとしたなあ。

立木さんは60年代から外国人モデルを撮りまくってたわけだから、特に外国人コンプレックスはなかったですか?

立木 アドセンターでやっていたファッション写真は、プロじゃなくて来日した報道関係者や、その界隈の人が多かったから、そういうジャーナリストに洋服着せて撮ってたんだよね。

先日立川のPLAY!MUSEUMで開催された「堀内誠一展」でも立木さんが撮影したビジュアルがたくさん展示されていましたが、1970年に創刊された「anan」初期の表現なんて、全く海外に劣らないビジュアルで圧倒されますよ。

立木 モデルや動くお金の面では「VOGUE」や「Harper’s  BAZAAR」には敵わないけど、アイデアや細々したところでは、勝ってたところもあったと思うよね。

だって「anan」のファッションページのために、デザイナーさんはわざわざ洋服をつくっていたわけですよね!

菊池 まだ既製服自体が少なかったですからね。編集部の人たちから企画テーマをもらったら、「これでどうでしょう」ってデザインを提案して、それをつくって。

雑誌の1ページのために、モデルに合わせた1点もののデザインをつくってミシンで縫うという、贅沢極まりない仕事ですよね。

立木 そんな仕事を任されるデザイナーは何人かしかいなかったけどね。〝ぶどう色〟をテーマにしたところでそんな洋服はないもんだから、生地を探してきてつくるんだ。当時の雑誌もけっこう真面目にやってたんだよ(笑)。

時間とお金のかけ方がすごいなあ。

立木 そのかわりロケ弁だけはひどかったけどな(笑)。

1970年代頃は深夜早朝営業してるコンビニやスーパーなんてなかったでしょうからね(笑)。

菊池 でも仕事は楽しかったですね。ほとんど寝れなくて毎晩徹夜だったけど、全く気にならなかった。

立木 なんでかよくわかんないけど、楽しかったね。

当時は抑圧も激しかったでしょうから、世の中的には今のほうが自由で便利な時代になっているとは思うんですけど。

立木 今が自由? 全然自由じゃないだろう。

菊池 すでに完成されたカタチがある中で、ただ選んでるって感じだもんね。

多様性の時代と言われていますが・・・。

立木 でもさ、お主ら「いいね」しか言えないじゃん。SNSは自由っていうけど実際は検閲されてるし、奴隷化されてるよ。だからもっと俺を自由にさせろ。俺は酸欠だ。看板持って歩くぞ(笑)。

おじさんたちを自由にさせろ!と(笑)。散々やりたい放題やってきたおふたりですが、これからやりたいことなんてあるんですか?

菊池 それはたくさんありますよ。だって自分が思った通りやれた記憶なんてないし、なにも完成していませんから。今は周りからオファーがないけれど。

これほどの巨匠になると、なかなか気軽にはお願いしにくいですよ!

立木 オファーされたら動けるってのはあるんだけど、されたらされたで言われた通りにはやりたくないからね(笑)。だから彼のことをよく知る人間が、うまいことくすぐってやらないとダメだ。でも、今は面白いことをやりたいと言っても、すぐにガチガチの企画書とか渡されるからな。

菊池 もっとワガママ通したいっていうのはありますよね。

立木さんはどうですか?

立木 あ? 俺がこんなところで言うと思うか? 誰が見てるかわかんないんだから、できてから来いよ(笑)。

す、すみません! でもふたりは仕事仲間でも飲み仲間でもなかったのに、同じような感覚を共有しているんですねえ。

立木 ふたりとも同じ時代の風に吹かれているから、違うとはいえないよな。「あの映画のあのシーン」と言っただけで、感じるものがあるじゃない。

菊池 一度も飲みに行ったことはありませんが、ぼくにとっては兄貴みたいな存在ですから。

ふたりとも衝撃的に元気だし、「100歳記念対談」とか普通にやってそうですね(笑)。

菊池 毎日1万歩は歩いてますから。

目黒から吉祥寺まで徒歩で往復したという伝説は伺っております(笑)。

菊池 そういえば日本橋の上を通ってる首都高が、2035年に地下に潜るんですよ。とりあえずそれは見ておきたいなって。

立木 それは見たいねえ!

では次回の対談は2035年に(笑)!

対談が終了したあとは長話することもなく、握手を交わしてサラリと帰路についたふたり。こんなサッパリした付き合いも、なんだかカッコいい。まさに〝風のようなふたり〟だったのだ!

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