2024.11.21.Thu
今日のおじさん語録
「世界はあなたのためにはない。/花森安治」
『ぼくのおじさん』<br />
インタビュー
13
連載/『ぼくのおじさん』 インタビュー

〝ラスト雑誌タレ〟
みうらじゅんが
ぼくのおじさんたちに
教わったこと(前編)

撮影・文/山下英介

「ぼくのおじさん」に、ついにみうらじゅんさんが登場してくれた! 65歳にしてなおキープオンロッケンロールし続けるおじさんがどうやってつくられたのか、2時間みっちりと教えてもらった。あまりに面白すぎてカットするところがなかったので、2回に分けてお届けします!

〝ぼくのおじさん〟は
仏像マスターのおじいちゃん

みうら 昨日ちょうど、以前このインタビューを受けた山田五郎さんと飲んでたんですが、ぼくらもう、おじさんじゃなくておじいさんなんじゃね?って話になって。

でも「ぼくのおじさん」のメンバーの中では、みうらさんと山田さんは若手です(笑)。今日はみうらさんにとっての〝ぼくのおじさん〟的存在を教えてもらいたいと思って伺いました!

みうら そういうことですか(笑)。じゃ、ぼくが小学生のとき憧れだった、母方のおじいちゃんの話をしますね。古美術好きで拓本の作品集を自費出版して、そんなときだけは親戚の新年会に顔を出してはみんなに本を売りつけるというアウトロー的存在だったんですがね(笑)、また、そのおじいちゃんがぼくの仏像マスターでした。今ちょうどその頃のことを『ブツゾー・キッド』っていう小説(雑誌『淡交』に連載)に書いているんですけどね。ぼくは小学生のとき、そのおじいちゃんに習字を習っていて、オフ日はよくお寺に連れてってもらってたんですよ。おかげでぼくの人生はずいぶん変わっちゃいました。今、考えるとその頃のおじいちゃんはたぶん今のぼくと同じ歳くらいだったんじゃないかなあ。

〝ぼくのおじさん〟はおじいちゃん! では実際のおじさんはどうだったんですか?

みうら 実際の? 遠縁にあたるおじさんは三鷹に住んでて、ぼくは浪人生のときに下宿させてもらってたことがありますね。そもそも浪人で上京って時点でおかしな話なんですけど、東京のデッサンと関西のデッサンは違うって好都合な話を地元の美術研究所で聞いてね、それをいい説得材料に上京したんです。でもさすがにうちの両親もひとり暮らしはヤバいと思ったみたいで、三鷹のおじさんの家だったら行かせてやるって思ったんでしょう。

さすがに親戚の家ならハメを外しすぎることもないだろう、と。

みうら ハメねえ(笑)。それは後に話しますね。いちおう御茶ノ水美術学院という予備校に通い出したんだけど、ぼくは美術といや、横尾忠則さんになりたかっただけで、特に入試に興味あったわけじゃないんです。その翌年の美大入試に、曲線と放物線を使って色彩構成するという課題が出たときに、こっちはおっぱいを描いて、そこからミルクが出て、当時横尾さんのマイブームだったUFOを空いたスペースに描きました。当然ね(笑)。

当然そうなっちゃいますよね(笑)。

みうら 予備校の講師にどんな色彩構成をしたのか聞かれたんで、得意気に説明したんです。するとね、「君、一生、受からないと思うよ」って言われて。ずっと不思議だったんですけど、それがわかるのに二浪もしたわけです。

入試のための絵は全く別物、といいますよね。

みうら ま、軽い気持ちで上京してきたもんですからね、当然昼くらいに起きて予備校に行っても、いい席なんか全く取れなくて、後ろのほうからではモチーフも全然見えないし、デッサンもやる気しないわけです。そんなときにそこで出会った女の子に恋しちゃって。一番まずいパターンですよね、受験生として。その子に筆おろしまでしてもらいましたから、もう受験なんかどうでもよくなっちゃった。それで一度帰省したときに両親に「ぼく受験やめて結婚するわ」って言ったんです。すると、そんなつもりで東京に出してるわけじゃないという、至極まっとうな意見を言われましてね(笑)。

反抗の対象ではなかったという優しいご両親が(笑)。

みうら 珍しく怒ってましたね。でも、いくら叱られたって、走り出した恋愛は止まらないじゃないですか。それからも、どうしたら結婚できるんだろうってことばかり考えてた。彼女は少し年上の方でね、童貞特有の見栄というのか、こっちは君が初めてだっていうのがなんだか悔しくて。もうバレバレだったんだろうけど、嘘ついてたんです。結局、バレてね、すごく怒られた。「嘘つく人キライ」って。

身につまされます。

みうら 今から考えたら、丸わかりじゃないですか。でもそれをごまかせるって思ってる自分もおかしくてね。でも、どんどん京都にいたときの自分がなくなっていくような感覚を味わいました。・・・そうそう、そこで、先ほどのハメ問題がね(笑)。そのおじさんにセックスしているところを見つかったんですよ。

そういう〝ぼくのおじさん〟のエピソードだったんですか(笑)。

みうら ラブホなんてどこにあるのか知りませんから、ついつい下宿先を利用しちゃってね。おじさんが何かの用事でドアを開けたとき、その最中で。

・・・やっぱりそういうときはお互い無言になるんですか?

みうら そのとき自分の行動がとても不思議でね、彼女から離れるんじゃなくて、グッと押し込んだんですよね。

(笑)状況じゃなくて、モノそのものを隠そうという。

みうら でしょうね(笑)。それで翌年、結局追い出されたんですけど、もうおじさんは高齢だったし、その何年か後にお亡くなりになったんです。未だあの一件も原因のひとつだったんじゃないかと思ってるんですけど。そりゃショックだったでしょうから。そんなふうに、浪人生としては一番ダメな道を選んで2浪までしましたけど、ぼくにとっては大切な思い出です。・・・あれ? そんな〝ぼくのおじさん〟話でいいんですか(笑)?

そんなお話をしてほしくて伺いました(笑)。

「みうらじゅん」を
プロデュースする三浦純

みうらさんの学生時代って、すでに〝サブカル〟みたいな概念はあったんですか?

みうら いや、なかったですね。当時はアンダーグラウンド・・・アングラって呼ばれてましたから。何かもっとドロドロしたイメージの世界でしたね。でも、デビューして何年か経ったとき、ぼくのプロフィールに〝サブカルキング〟なんて書かれるようになったんです。そんなこと自ら言ったつもりもないし、こっちとしてはサブを歩いている意識もなかったですからね。絶えずメインの道を歩いていると思ってましたから(笑)。だって仏像だって怪獣だって誰でも知ってるメジャーなものでしょ?

5歳で怪獣、9歳で仏像に目覚めて以来、その情熱をひたすらキープオンし続けている!
確かに大メジャーですね。

みうら それがどう間違ったか獣道に迷い込んだ、そんな感じです。でも、今思うと昔っから世間とはズレてたかもしれませんね。だって、中学生のとき、初めて友達に女の子を紹介してもらったんですけど、考えたデート先は東寺でしたからね。その寺の講堂で立体曼荼羅を見ながら得意気に仏像の話をしてたら、「三浦くん、帰っていいかな?」って言われました(笑)。

立体曼荼羅は中学生女子にはちょっとハードルが高いかもしれないですね(笑)。

みうら ですかねえ(笑)。これじゃモテないと思ったので、中3から吉田拓郎さんに趣味をシフトしたんです。

モテたくてギターを始めるというのも、サブというより王道ではありますね。

みうら でしょ。でもね、ぼくには興味のあることに対してやたらと熱心になってしまう癖があったんですよ。ギターコードを必死で覚えて当然、学園祭のステージに立ったんですけど、受けなくてね。理由はきっと、オリジナル曲だったからだと思うんですよね。

中学生から自作曲ですか!

みうら だって、拓郎さんもオリジナル曲じゃないですか。そこを見習ってしまったもので。でも観客は「知らん曲やんけ」の一言で片付けちゃう、そんな時代でした。帰れコールまでされてね。でもそれは拓郎さんしかり、ボブ・ディランさんがフォークからロックに変わったときと反応が同じ。悪くないと思いました(笑)。

1965年の『ニューポート・ロック・フェスティバル』で起きた事件と重ね合わせて(笑)。

みうら ですね。ラジカセに吹き込んだカセットをアルバムって呼んでましたからね。結局高校卒業までに400曲くらいつくりました。カセットを送りつけていた友達からは「プロよりあるって気持ち悪くねえ?」とまで言われてね。そうなるともうモテるとかモテないとかじゃなくて、つくりたくてしょうがないゾーンに入ってしまいました。「これはみうらじゅんの新しい世界をひらく一枚だ」とライナーノーツまで、評論家になりきって書いてたから。ひとりっ子だからか自分ひとりで完結しちゃう癖があったんでしょうね。上京してからそれが欠点だということにようやく気が付くんですけど、その呪縛から解けるのにはずいぶんかかかりました。

今だったらSNSがあるけど、昔はそういう場所がなかったですもんね。

みうら 当時、そんなものがあったら当然やってましたよ(笑)。 

あ、やっぱりやるんですね。

みうら 自分がやってたことって、昔から〝ひとり電通〟でしたからね。でも当時は、それをプレゼンするためのひと味が足りてなかった。エンターテインメントというやつです。だからぼく、ひらがな名の「みうらじゅん」をつくったんです。

「三浦純」と「みうらじゅん」を分けたんですね!

みうら だから今、サングラスをかけて喋ってるぼくはひらがなの方。「これを売り込むにはもっとこうしたほうがいいんじぇねえの?」とかひとりで二役の作戦会議をするんです。

みうらじゅんは、三浦純がプロデュースしたわけですね。

みうら 今こんなレッツゴー不自然じいさんになったのも、その作戦会議の結果なんですよね(笑)。ステイホーム期間にここはインドにホームステイしている体で、ヒゲをボーボーに生やしてジョージ・ハリスンみたいになったほうがいいという会議がありましてね。

この事務所のあたりはお巡りさんが多い上品なエリアですし、三浦純もなかなか無茶振りしますね。

みうら でしょ? ヒゲも長くなるとね、パンツというマスクから隠毛がハミ出てるようなカンジになりますから。いまだ職質は多いですよ(笑)。

40年ぶりによみがえった
糸井重里さんの教え

その脳内会議には、たまに糸井重里さんも参加されるんですか?

みうら 東京で初めて知ったものすごい人が糸井さんだったので、今でも幻聴のようにアドバイスは聞こえてきますよ。

糸井さんの存在はもともとご存知だったんですか?

みうら いや、初めてお目にかかった頃は、世間でもまだコピーライターという職業は認知されてなかったんじゃないかなあ。ぼくのムサビ(武蔵野美術大学)時代の友達が、糸井さんのアシスタントになってからです。ぼくがようやく知ったのは。当時、沢田研二さんの『TOKIO』の作詞もされていましたから、これはチャンスだと思い原宿のセントラルアパートにあった事務所まで、オリジナルカセットを持ち込みに行ったんです。

おお、プロを超える量のオリジナル曲を(笑)!

みうら その頃にはベスト盤までつくってましたから、それをね、事務所でかけさせてもらったんです。いちいち解説しながらね(笑)。でも糸井さん、もう切れとか言わないんですよ。そうしてる間にどこかのお偉いさんみたいな方々が打ち合わせでいっぱい来られたんですけど、「ちょっとボリューム絞ってくれる?」って言うんです。切れとは言わないところがスゴくないですか? 会議中に、ぼくがつくった曲がまるでBGMのように流れ続けるというね。で、会議が終わった後に糸井さんは一言、おっしゃいました。「お前はなにか大きな間違いをしているな」と(笑)。

無名の若者相手にその対応は、自分に置き換えると絶対にできないですね。

みうら でしょ? こないだ糸井さんとトークショーやらせてもらったときにその話をしたんですけど、「いじると面白い味を出すやつだなとは思ってた」っておっしゃるわけです(笑)。糸井さんは本当、誰にも決してできないようなことをいっぱいぼくにしてくださったんですよ。世に出るきっかけまでね。

糸井さんにはどんなことを教わりましたか?

みうら ぼくが勝手に完成してると思ってたものを、世に出すためにはそれじゃダメなんだってことをすっごく教えてもらったんです。まず最初に言われたのが、高円寺に安住していたらダメだってことです。

確かに高円寺にはすべてがありますね。この街だけで完結しちゃうというか。

みうら 楽チンですものね。でも、その世界以外に目を向けないとダメだと。だから、早速原宿のワンルームマンションを借りてね。それと「好きなのはわかるが、この時代に長髪はいかがなものか」みたいなことも言われたね。ちょうどテクノの時代でね、ロン毛はラスト・サムライ状態でしたから。だから糸井さんがよく言ってるモッズヘアってやつにしようと思って、近所の床屋さんで「モッズヘアにしてください!」って注文したんですよ(笑)。そしたらオヤジさんが「はぁ?」ですよ。店の奥に行って誰かと話して戻ってきてね、「それ、店の名前じゃないですか?」って言うわけです。

本当に素直だなあ(笑)。

みうら 本当、いじるといい味が出るんですよ、ぼく(笑)。それで妙な刈り上げにされたんですけど、『ビックリハウス』って雑誌で連載の話が飛び込んできて。そしたら糸井さん、次は「とりあえず絵をいっぱい描く連載にしなさい」と、1ページの上と下に同じ運動会の絵を描き、何ヶ所か違っているという間違い探しの企画を与えてくれたんです。

手取り足取りなんですね。

みうら 聞いた当初はそんなの面倒臭いなと思ったんですがね、糸井さんは楽チンなほうに行こうとしていたぼくを正してくれたんですよね。

なかなかできることじゃないですよね!

みうら だから、ぼくは一度も会社に勤めたことがないですけど、糸井さんが唯一、心の上司でね。そうそう、そんな糸井さんからのアドバイスを40年ぶりに思い出して描き始めたのが、この前の展覧会(「みうらじゅんFES マイブームの全貌展」)に出品した『コロナ画』というやつなんですよ。

私は今年5月に所沢で開催されたときに拝見しましたが、あれは壮観でした!

みうら ありがとうございます。見て頂いたんですね。あのときの「運動会の絵を描けよ」って言ってくれた糸井さんのことを思い出して、描き始めたんです。最初はワニの絵を描いていたんですが、隙間をなくさなきゃと思って、今までのマイブームの要素をごちゃごちゃに足して、もとの絵を台無しにするみたいなプレイを続けてます。

みうらキャラ全員集合でしたね。

みうら 展示したのはF-10のキャンバス108枚。連作ですからゲルニカサイズは超えたんですよ。昔は入試用のデッサンとか色彩構成とかに何の意味があるんだよって思ってたけど、今はそれが楽しくて。ま、結局、自分のネタはキープオンどころか今やループオンしてるんですけどね(笑)。

みうらさんもすごいけど、40年も生き続けるアドバイスをできる、糸井さんもすごいなあ。だってそのときの糸井さんだって、まだ30歳ちょいですよね? その世代のクリエイターなんて、普通は自分ひとりがのしあがることしか考えてないですよ。

みうら でしょ。糸井さんはこんなこともおっしゃってました。「俺のダメなところもみうらにあったから、お前がどうすればいいのかわかるんだよ」って。

〝ウワッ〟のために獣道をいく!

山田五郎さんの事務所とは真逆なテイストながらも、コレクターの業を感じさせるみうらじゅん事務所。「山田さんはここにあるものはなにひとつほしくないと思うよ(笑)」とみうらさん。「だから仲がいいんだよ」とも。
みうらさんのもとには、きっと弟子入り志願者とかもたくさん来ますよね?

みうら たまにありますね。履歴書を送ってくるとか。「みうらさんみたいな仕事をしたいです」って書いてあったんで、だったらいらないなと。コピーじゃ意味ないですから。

みうらさんは、中学生の頃からオリジナル一筋ですもんね!

みうら でもこの間、ぼくの神様である横尾忠則さんに久々にお会いしたときにおっしゃったことは、「みうらくんね、絵というものは基本、模写だから」って。

すっかりハシゴを外されたと(笑)。

みうら いや、またも衝撃を受けました。今、コロナ画はその御言葉を胸に刻んで描いているんですよ。それと量産ですかね。

量のもつパワーはフェスでも実感させられました。凄みがありますよね。

みうら ひとつひとつは「何だこれ?」で片付けられるようなモノでも、それがものすごい量になるとね、見た人はとりあえず、ウワッて言うんですよね。だからそのためには、やっぱりモノは残しておかないとダメなんですよ。飽きたからって捨ててるようじゃ、プロじゃありません。ぼくは長年、ウワッのためにはどうしたらいいんだろうかってずっと考えてきたようなもんです。

1980年代半ばは、ゲーム誌での連載を多く抱えていたみうらさん。ちなみに「クソゲー」とはみうらさんの造語。当初、発売元から叱られたという。ちなみにこちらはクソゲーのひとつ『頭脳戦艦ガル』。
まさに獣道ですね。

みうら 実際のところ、家と事務所、さらに倉庫まで借りなくちゃいけない状態になっているわけです。結局、そのために働いてるみたいなもんですよね。でもそれはしょうがない。そこで考えついたのが今回のフェスで、この展覧会をずっと回していれば倉庫を借りる必要がないという。だから、巡回じゃなくてツアーって呼んでるんです(笑)。

巡回展である背景には、そういう事情が! あのフェスでは、みうらさんのストックの大半が展示されてるんですか?

みうら いや、まだ残ってます。倉庫はいわばワイナリーみたいなもんですから、熟成するのを待ってるんです。こないだ所沢でやったフェスにも、以前出ていなかったやつを何個か出しましたし、それで観客の反応を試してるんです。やっぱりお前は2軍落ちだ!と、また倉庫に戻されるやつもいますよ。

「カニパン」とか「ヘンヌキ」の中にも、厳然たる格差が存在するんですね(笑)。てことは、この事務所にあるのは2軍なんですか?

みうら ここにあるのは3軍ですよ(笑)。

この仕上がりぶりで3軍(笑)。しかしその倉庫も整理が大変でしょうね。

みうら いや、全然適当ですよ。だってモノを片付けるというセンスがあったら、そもそもモノは集まらないでしょう。散らかっても気にならないくらいじゃないとね。

それは確かにそうかもしれません!

みうら ぼくは人生棒に振っても集めるマニアを知っているんです。当然、自分はそこまではいけないですから、せめて、崖から落ちる一歩手前のところまで行きたいと。また、そのギリギリが面白いんですよね。ワニブームのときは、パニックものの映画でサメほどワニが伸びてないという小さな気付きから、自分をどう追い込んでいくかを考えました。もちろんワニのグッズを色々買うんですけど、新宿のタカシマヤに入って、ついラコステの店で着もしないのにでっかいワニのマークが入ったトレーナーを買っちゃったときは、いいノイローゼ入ってきたと思いましたね。はっきり言ってほしくないものを買い始めたときは第1期なんで、来た来た!みたいな感じなんですよ。

いらないものを集め出すという恍惚(笑)。そんなみうらさんの中にも、一応のボーダーラインがあるんですか?
口元のほくろが艶かしい、オリエント工業謹製ラブドールの絵梨花さん。ちなみにラブドール仲間のリリー・フランキーさんは『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに、喪服を着たリリコさんを同伴。客席を恐怖の渦に叩き込んだ。

みうら ラブドールも同様でしたね。1ドル100円くらいの時代に1ドール70万円ですから。そりゃ、買えばいいノイローゼがくることは間違いありません。必要性というものからどれだけ遠くにいけるかですね。なかなか説明しにくいけれど、自分ではいろんなものと結びついてナンボの世界なんです。

それの感覚はちょっとわかるような気がします。

みうら ひらがなのみうらはきっと、そういう気持ちで『コロナ画』も続けているんでしょうね(笑)。

「ラスト雑誌タレ」のプライド

『コロナ画』はマイブームの曼荼羅なわけですね。私が先日拝見したのはまだ完成図ではないとのことですが、頭の中には完成図が存在するんですか?

みうら ないから面白いんでしょうね。仕事と違って頭は使ってないし。最初は趣味だと思って始めたことが、最近ではどうやら癖化してるようです。だから、いつまでたっても終わりがないんです。『コロナ画』としてはそろそろ収束すべきなんでしょうけど、なんかオナニーみたいですね。実際のところオナニーの頻度が少なくなってきた分、絵で補ってるのかもしれません(笑)。

私も業界歴はそこそこ長いので、雑誌におけるだいたいの原稿料の相場も知っていますが、みうらさんのマイブームって、絶対に足が出ちゃいますよね?

みうら もちろんそうですよ。だからその分、たくさん仕事をやりますよね。ぼく、「雑誌タレ」だから。しかも「ラスト雑誌タレ」の自負までありますから連載は今でもたくさんやってます。雑誌に出して、あいつまた変なもん買ってるよとか言われてナンボの商売ですから。

うわっ、いいですね「ラスト雑誌タレ」! 確かに、もはやみうらさんが最後の雑誌コラムニストと呼べる存在かもしれません。

みうら お金出してまで雑誌を買う人は少ないでしょうけど、でも、たまたま歯医者とか空港で「今はワニブーム」だって書かれた別の雑誌を手に取った人同士が飲み屋で「そういや今、ワニ来てるの?」なんて話をすることだってあるかもしれません。そんな間違いが起こらないかって思いながら、今でもいろんな雑誌や新聞で連載やってるんですけど、そういう小さな活動がね、「ラスト雑誌タレ」としての使命ですから。

みうらさんは雑誌に義理を尽くしているんだなあ。でも確かにみうらさんは、Webのお仕事やTwitterなどのSNSは、ほぼやってないですよね?

みうら 「みうらじゅん賞」というものを年に1回だけYouTubeでやってますけど、それ以外はなにも。やっぱり形になっていないものには興味がないんですよ。

真面目じゃなくちゃ
ロックにはなれない!

最近、ぼくのような仕事でも、たまにスーツ姿のおじさんたちに囲まれてプレゼンとかミーティングしなくちゃいけない機会があるんですが、正直いってすごく苦手なんです! みうらさんはそういうの、得意でしたか? 「カスハガって何かね?」みたいな真面目な人たちを相手にするの。

みうら 得意なわけないじゃないですか(笑)。でもね、ぼくが好きになったロックの人たちって、基本、真面目にふざけておられると思うんですよ。いい歳してあんなに髪伸ばしたり、かつては来日したらホテルの窓からテレビを落としたり、イメージ通り頑張っておられるんですよ。反逆ということに対しても。あんなの真面目じゃないと一過性で終わっちゃいますから。だからいまだにボブ・ディランはすごいんだと。だから、得意じゃない現場でも、いつも心にロックをと演じ続けねばと思うんですよね。

みうらさんが師と仰ぎ、高校生時代に自らつくった雑誌で〝気が狂いそうなほどに好きだ〟と綴ったボブ・ディラン。写真上は和田誠さんが描いたボブ・ディランの原画だ。
確かに最初はよくても、やり続けるのは大変ですね。

みうら ぼくが生まれて最初にカッコイイと思ったおじさんは、ゴジラなどの特撮を手掛けられた円谷英二さんなんですけど、それって子供だましをしなかったからなんですね。いい大人が集まって、ピアノ線1本が見えるとか見えないとかでケンカしながらつくっていたような逸話を聞くと、グッときますよね。小一のときからすでに怪獣の中には人が入っていることは知ってましたけど、みんなが気付いてる上で怪獣に見せるには、どうすればいいか、一生懸命考えていたわけじゃないですか。そこがカッコイイ。結局怪獣ブームがダメになったのは、子供に合わせたからですよ。子供って、子供だましに付き合わされるのが一番嫌いだから。

その通りですね。

みうら 仏像マスターのおじいちゃんだって、そうだと思う。ぼくの好きなおじさんたちはみんな、格好よかったですよ。ぼくは何も変な人に憧れたつもりは一度もない。・・・なんだけど、どこで道を間違ったか、ぼく自身が世間的には変なおじいさんになっちゃったんですよね(笑)。ま、そこが自分だったんでしょうけど。

みうらさんのご両親は、みうらさんの仕事について理解はされていたんですか?

みうら いや、どうなんでしょう? ぼく、一度高校時代に死にかけてるんですよ。幸いにも手術がうまくいって生き残ったんですけど、そのときに生きていてさえくれたらそれでいいって親は思ったんじゃないでしょうかね。だからそんなに怒られた記憶はないし、逆にちょっとしんどかった部分もこちらにはあってね。まあ、すごいまともな家だったから、やっぱりまともにいってほしかったんだと思いますよ。

やっぱり女装とかは怒られますよね(笑)?

みうら いや、女装は母親がすごく喜んでました(笑)。私の若い頃にそっくりやと。

さすが、観点が違いますね(笑)。

みうら 30過ぎたくらいのときに「バギナーズ」って架空のバンドで女装してたんですけど、「結局仕事だからやってるだけじゃん」って、またも漢字のヤツが問い詰めてきてね。そういうまともな人間であることのコンプレックスをどうにかしなきゃってずっと思ってたし、日常でもできなきゃダメじゃんって。

めちゃくちゃ真面目、いやロックですね!

みうら そのとき実は女装&杖ブームだったんですね(笑)。ミニスカに編みタイツを合わせてブーツ履いて、そのうえ杖を突いてね、タクシーに乗り六本木まで行ってみたんですが。

ミニスカ&杖(笑)。内田裕也どころの騒ぎじゃないですね。

みうら やっぱ、ビビって杖が汗でね、びっしょりになってました。すぐに家に戻ってきたんですけどね。修行ですよね。でも、ぼくらの仕事はそういう俯瞰というか、もうひとりの自分がいないとダメなんですよ。

漢字の三浦純がひらがなのみうらじゅんに修行を強いると。

みうら ですね。まあ、ちょっとひらがなも頑固なところもありましたから、育てあげるのは結構難しかったですけどね。そういや、杖&女装期に美輪明宏さんにお会いしたことがあるんですよ。当時自分がやってたTV番組にゲストで来ていただいて。そしたら帰り際に、TBSの前でギュッとハグしていただき、「頑張ってるわね、あなた」っておっしゃったんです。その瞬間、やはり頑張ってしてることがバレてるんだ、と思いました。きっとその御言葉は否定でも肯定でもなかったと思うんですよね。あなたがそのカッコで何を感じるのか? それが大切だとね。だから、ぼくが好きなおじさんたちは、決して結論を言わないのも魅力なんですよね。

『ベスト・キッド』のミヤギさんのように、最後までは言わないと。

みうら そうです。結論を言う人って、信用できないじゃないですか。だって飲み屋の説教じゃないんですから。ボブ・ディランおじさんは、それを〝How does it feel?〟って聞くだけですから。そして、答えは?つったら、風に舞っているっていうじゃないですか。ブルース・リーおじさんも〝Don’t Think,Feel〟でしょ。問題はそれであなたがどう感じるかってことですよね。若い頃は、つい答えがほしくなっちゃうんですけどね。

山田五郎さんも仰っていましたが、最短距離で答えに到達したがるのが、最近のカルチャーですよね。

みうら そういえば以前『タモリ倶楽部』に出してもらっていたときは、タモリさんから「そんな頑張らなくていいからね」って言われたこともありました。最初はぼくみたいな人間、頑張らなきゃ役に立たないしと思ってたんですけど、そういうことじゃなくて、もっと観念的な言葉だったんですよね。

テレフォンショッキングのネームプレートの下には、どうかしてる(DS)漫画の筆頭『高校生無頼控』が!
深いですね。

みうら そもそも正解って人間が考えたもので、自然界にはないんじゃないでしょうかね。何が幸せかっていうことも、結局比較でしかないわけで。ぼくたちは義務教育を受けてきたから、つい答えを求めがちだけど、だんだん歳をとってくると、なんだ答えなんてないじゃん、っていう答えに行き着きますからね。ようやく素敵なおじさんたちが言ってきたことがわかってくるんですよ。

後編はこちら

みうらじゅん

1958年京都生まれ。武蔵野美術大学・視覚伝達デザイン科に入学し、在学中の1980年に『ガロ』で漫画家デビュー。近著に『マイ遺品セレクション』『マイ修行映画』『ハリネズミのジレンマ』(すべて文藝春秋)など。2023年、「特別展 聖地 南山城」でいとうせいこうさんとともに仏像大使に就任。7月22日になら100年会館で「仏像大使トークショー」を開催予定。

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