ヤッコさんと
デヴィッド・ボウイの出会い
文/中村のん
大変お待たせしました! 久しぶりの更新となる、中村のんさんの大人気連載『20th Century Girl』。今回は高橋靖子さんを語る上では最も欠かせない人物、デヴィッド・ボウイについて綴ってもらった。しかも写真はデヴィッド・ボウイの盟友ともいえる写真家、鋤田正義さんの作品! 「ぼくのおじさん」の編集人は、2013年にロンドンで開催されたデヴィッド・ボウイの展示会『DAVID BOWIE is』を見ているのだが、山本寛斎さんの衣装を身に着けたボウイの写真をじっと見つめる、ロンドンっ子たちの視線が今も忘れられない。デヴィッド・ボウイ。山本寛斎。高橋靖子。鋤田正義。異なる才能がぶつかり合ったことで生まれた星のような輝きは、どんなに時が流れても決して色褪せることはないのだ。
あらゆるメディアがヤッコさんを紹介するとき、必ずつけるのは「デヴィッド・ボウイのスタイリストを務めた」というフレーズだ。「日本のスタイリスト第一号」として、1960年代の終わり頃から活動をはじめたヤッコさんにとって、1971年から73年にかけての時期は、スタイリストのキャリアにおいてだけでなく、個人的人生においても特筆すべき時期だ。
アーノルド・シュワルツェネッガー、ハリソン・フォード、レスリー・チャン、オノヨーコ、ダイアン・レインなど、数多くの海外スターとの仕事も多かったヤッコさんだが、広告の仕事を通してのスターたちとの出会いと、デヴィッド・ボウイとの出会いは、色合いが大きく異なる。
ヤッコさんの著書『あいさつのない長電話』は、1974年から週刊誌『ヤングレディ』にヤッコさんが連載していたエッセイをまとめた形で1976年に講談社から出版された本だ。この中に、ヤッコさんが初めてステージのデヴィッド・ボウイに触れたときのことが記されている。これは私が知る限り、ボウイとの出会いについて、ヤッコさんがもっとも早い時期に公に語ったものだ。その場の臨場感と、31歳のヤッコさんの興奮、そして、時代そのものの息吹が伝わってくる貴重な文章をここに引用したい。
何年かまえ、わたしはロンドンで、デビッド・ボウイというロックスターにめぐり逢いました。
ロンドンに貼られたポスターにひょっこり目をやったとたん何かがひらめいたのです。
そのとき、わたしはロックスターの撮影の仕事のためカメラマンとアートディレクターといっしょでした。三人が三人とも、宇宙から降り立った銀河少年のような雰囲気の新しいロックスターのポスターを見て、ただちにエキサイトしてしまったのです。
わたしはそれほどうまくもない英語でレコード会社に電話をかけ続け、数日後にひかえた彼のデビューコンサートの切符を四枚手に入れました。(略)
レコード会社に行ったり、会場のローヤル・フェスティバルホールを確かめたり、“独占撮影”や“独占インタビュー”の交渉をしながら、わたしはヒースロー空港に、日本の“サムライヒッピー”っていうような格好をした彼(※ヤッコさんの当時の恋人)を迎えに行ったりしていました。(略)
ローヤル・フェスティバルホールは上野の文化会館のような所で、普段はクラシック専門の音楽堂なのです。ステージの中央に圧倒的なパイプオルガンがすえつけられているような会場で、ロックをやるなんて、はじめてのことだったからそれだけでも胸がドキドキしてくるのでした。
そういうクラシックな会場に、思い思いの装いをこらした若者たち―その頃は、ギンギラギンのロキシーファッションの全盛期だったので、キラキラと輝く粉を全身にちりばめたような男女があちこちにいて、相当みものでした。
それに、パンフレットの売り場では、「クジラを助けよう!」というポスターと「ホイール・キャンペーン報告書」という、タイプ印刷のいともまじめなレポートが飛ぶように売れているのです。全滅の危機にひんしているクジラを助けようというキャンペーンを“フレンズ・オブ・ジ・アース”(地球友の会)という若者の組織団体が自主的に行っているのでした。
クラシックとロックと、ギンギラギンのファッションとクジラのキャンペーンが、奇妙にいりまじった中で、コンサートがはじまりました。
パイプオルガンだけがにぶくひびくステージいっぱいに、ベートーベンの第九が流れます。
そのクライマックスの合唱がはじまったとたん、エレキギターをかかえた銀河少年がひらりとステージにあらわれ、激しいロックンロールを歌いはじめたのです。
だれもが、その意表をついたはじまりにあっけにとられ、ポカンとしていました。
わたしは全身、ジーンととりはだがたつようなショックの中で、歌にひきこまれてゆきました。最初は、わけもわからず聴いていたけれど、だんだん歌の中身がわかってきてますますショックを受けました。
報道陣に囲まれ、華々しく出発した宇宙ロケットは、途中で軌道をはずしてしまうーもう地球にもどれない。
「愛していると妻につたえてくれ―」という最後の交信を残して、宇宙飛行士は絶望的な勢いで宇宙のかなたに消えて行くという歌。
彼が泣きながら歌った「ファイブイヤーズ」は、あと5年のあいだに何とかしないと地球が危ない―という歌でした。
コンサートが終わって、人のなみにもまれながら、四人とも夢遊病者のように歩きました。
わたしたちの人生にショックを与え、人生を変えるようなことが、今、おこったのだ。
音楽が人生をかえる―何てすばらしいことだろう。
ーこのはじめてのショックから、彼を徹底的にマークすることにしました。
幸か不幸か、わたしは十五歳ではなかったので、ホテルの部屋の番号を必死で調べたり、彼とふたりきりの時間をもつためにセクシーなアピールをしたり……っていうようなことはしませんでした。
そのかわり、最初は撮影やらインタビューだけだったのに、次第に彼のコンサートについてまわるようになり、スタイリストをすることになりました。
ニューヨークの公演、日本の公演とずっとついてる間に、最初ステージのかなたで遠く輝いていた彼の、人間としてのいろんな面を知るようになりました。
自信にあふれているときの彼は、とてもやさしく、舞台のそでで、早がわりのステージ衣装を着けているわたしにひどくあったかい声で、「サンキュー」をくり返し、もしかしたら、わたしは彼に愛されているんじゃないか―と思ってしまうほどでした。
ところが、いったん不安の虫が彼の心に入りこんでしまうと、気分はいっぺんに急降下し、「歌えない! もう声がでない! 目が痛くて死にそうだ!」と、わめきちらし、どんなになだめてもダメでした。
ひとつの肉体から発するひとつの声で、何千何万人の聴衆をいちどきに感動させられるということは、この世の中でいちばんすばらしい、しあわせなことでもあるけれど、そのためには、神経と肉体をすりへらし、いつもたったひとりでギリギリの絶壁に立たなければならないのです。
絶壁から絶壁へと身をさらすたびに、彼は天使のようにやさしくなったり、どうしようもない赤ん坊のように泣いたりわめいたりするのでした。
そういう彼にふれても、わたしはちっともがっかりしませんでした。
むしろ、人間らしくあがき、苦しんでいる彼が、ますます天才にみえたし、大きな才能のまえには、すべてが許されるという気持ちでした。
私がヤッコさんと知り合ったのは(ヤッコさんの存在を知ったのは)1973年、私が17歳のとき。ヤッコさんがボウイと仕事をしてから1年も経たない頃だった。なので、ボウイと仕事をした経緯などをヤッコさんから興奮した口ぶりで語られていてもよかったのではないかと思ったりもする。もちろんボウイの名前は、その当時も、その後の長いお付き合いの中でも何度もでてきたが、話しはいつだって、「ふと思い出したこと」といった調子の断片的なもので、時系列を追ったストーリーをきちんと聞いたことはなかった。
2013年にデヴィッド・ボウイが10年ぶりのアルバム『The Next Day』をリリースし、またこの年、ロンドンのV&A(ヴィクトリア&アルバート博物館)を皮切りに世界各地の大きな会場で開催されたデヴィッド・ボウイ展『DAVID BOWIE is』が大きな話題となり、そして2016年、『Blackstar』をリリースした2日後のボウイ突然の死去によって、ボウイに関するヤッコさんへのインタビュー取材の依頼は(海外からのものも含めて)ぐんと増えた。そのインタビュー記事によって、(何十年も親しくしていながら)そうだったのか!と初めて知ったことも多々あった(語られていたのに、ちゃんと頭に入ってなかったこともありそうだけれど)。
中でも、ボウイが亡くなった翌年、2017年に出版された『評伝 デヴィッド・ボウイ』(DU BOOKS)は、著者である吉村栄一さんがヤッコさんにインタビューした肉声を元に、ジャーナリスティックな視点でまとめられた貴重な内容だ。1974年にヤッコさんによって書かれた文章の補足にもなる部分を、長くなるがここに抜粋する。
6月にはついにアルバム『ジギースターダスト』発売。(略)そして、さらに決定的なコンサートが開催された。7月8日、ロンドンのテムズ川沿いにある名門のコンサートホール、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールで開催されたものだ。(略)ここにはゲストで元ヴェルヴェッド・アンダーグラウンドのルー・リードも登場するなど、ボウイの歴史の上で転機となったコンサートでもある。
また、この会場には、三人の日本人が観客として訪れていた。ひとりはこのときもロンドンに滞在していた加藤和彦。そして、カメラマンの鋤田正義とスタイリストの高橋靖子。加藤も含め、ある意味では集まるべくして集まった顔ぶれといえるだろう。
鋤田と高橋がこのときロンドンを訪れていたのは、ボウイの友人でもあるマーク・ボランが率いるT・レックスの撮影のためだった。これまでも二人は日本でマーク・ボランの撮影を行っていたが、ロンドンでも撮影したいという理由の渡英だった。(略)
二人はあるとき、路上に掲示されていた1枚のポスターに目を止める。それはまだその名前を聞いたこともないデヴィッド・ボウイのコンサートのポスターだった。ギターを抱え、片足を大きく上げてポーズを取るその写真から伝わってくる異様な雰囲気に二人は同時に目を止め、足も止まった。
彼らは、そこに記載されていたレコード会社RCAのロンドン・オフィスに電話をかけ、自分たちは日本から来ている撮影チームだが、ボウイの写真を撮らせてくれないかと相談をもちかけた。(略)フォトセッションの日は決まった。ではその前にボウイのライヴを観ておきたいと(※ボウイのマネージメント事務所の)メインマンに訊ねると、なんとすでにロイヤル・フェスティヴァル・ホール公演のチケットは完売しており、関係者であっても手に入れることはできないという返事だった。当時のロンドンではそれぐらい、ボウイ熱が過熱している状況だったのだろう。しかし、高橋はあきらめなかった。
ダメ元でと会場のロイヤル・フェスティヴァル・ホールに出向いてチケット売り場で訊ねてみると、今まさに、ちょうど何枚かのチケットのキャンセルがあったという。
高橋、鋤田、そしてスタッフ分のチケットを確保できた一行は、当日、いよいよボウイのコンサートを目の当たりにすることになった。1972年7月8日だ。(略)
ボウイの1973年の始まりは、昨年の12月から続いていた英国ツアーの再開だった。(略)
新進の若手有望ロッカーから、本当の意味でのスターに飛躍するには、全米で注目され、驚かれ、そして称賛されることが不可欠だとわかっていた。
そして、ボウイは、あるアイデアを思いつき、東京へ連絡を入れた。(略)
そして2月の始めにニューヨークでコンサートのリハーサルを開始するとき、そこには写真家の鋤田正義とスタイストの高橋靖子が待っていた。ボウイからの要請だった。
ボウイには、昨年の鋤田、高橋との出会いが強く印象に残っていた。
鋤田の写真と、高橋の用意した山本寛斎の衣装は、これから始まる米国でのツアーの大きな武器になるとの直感があった。(略)
山本寛斎の衣装を山ほど抱えてきた高橋は、リハーサルでいそがしく準備をしつつも、夜にはボウイ一行らとライブハウスCBGBに、デビューしたばかりのニューヨーク・ドールズのライヴを観に行ったりもした。(略)
高橋靖子は、この全米ツアーがボウイにとって重要なイベントになることはもちろん、そこに関わる自分たち、なかでも山本寛斎にとっては運命を変える出来事になるのではないかと感じ始めていた。そのため、高橋はコンサートの前夜から日本にいる寛斎に電話をかけ続けた。日本にいる場合ではない、絶対にニューヨークに来て、このコンサートに立ち会うべきだと。最初は戸惑っていた寛斎だったが、最終的には承諾してニューヨークに渡ることを決断した。ぎりぎりのコンサートの本番開始に間に合うスケジュールだった。
鋤田正義はこのニューヨーク公演の公式カメラマンだった。(略)そのときに撮影された写真のいくつもが、今日までボウイと鋤田の代表的な写真作品として残ってきたことは周知の通りだ。
高橋靖子が用意した山本寛斎の衣装と、新しいメイクアップ―眉を剃り落し、額に日輪のマークをいれた―も、ゴージャスで不思議で新しかった。(略)「ジギー・スターダスト」のときにこれまで着ていた服が黒子によって引き抜かれ、その下からまた新たな衣装が表れるという、のちに有名になる引き抜きの演出がこのとき初めてお披露目された。この日、ボウイは5回も衣装替えしている。
黒子役はメイクアップ・アーチストの女性と高橋靖子自身。
サルバドール・ダリやアンディ・ウォーホルも居たという観客席は斬新な演出やボウイのパフォーマンスに熱狂的な反応を示した。
その2ヶ月後の1973年4月8日、新宿厚生年金会館公演を皮切りに、ボウイ初の日本公演のツアーの幕が開いた。もちろんこのときのスタイリストはヤッコさん。ニューヨーク公演に続いてこのときも、ステージの袖に控えて、山本寛斎さんデザインの衣装の早替えの役を行った話はヤッコさん本人から何度も聞いてきたが、ヤッコさんと知り合って何十年も経った頃、スタイリストの立場でふと疑問に思ってヤッコさんに聞いてみた。当時は世界中どこを探してもないくらい(誰もみたことがないくらい)斬新だった寛斎さんの服、ボウイといえども、ヤッコさんが提案したとき、すぐに受け入れたのかと。その答えは「すぐにOKだったわよ」だった。
ヤッコさんがボウイと出会う前年(1971年)に山本寛斎がロンドンで日本人初としてファッションショーを行った。このときショーにヤッコさんはスタイリストとしてだけでなく、プロデューサー的立場で関わっていた。このショーは英国で大きな話題となり、モデル、マリー・ヘルビン、カメラマン、与田弘志で英国版VOGUEとHerpers’&Queenで寛斎の服がグラビアに何ページも特集された。
「これは憶測だけど、ボウイのことだから、それらの雑誌で寛斎さんのことも服もすでに知っていたのだと思うわ」と、ヤッコさんらしい正直な答えだった。「ボウイが着た衣装は、ボウイと出会ってから寛斎さんがデザインしたものと思っている人が多いけど、私が最初にボウイに着せた衣装は、ショーでモデルに着せた女性物を私が寛斎さんのアトリエから借りてきたものだったのよ」
17歳のとき、当時32歳だったヤッコさんから聞いた忘れられない言葉がある。
「男と女の恋愛は何もエロティックな関係だけじゃないと思うの。寛斎さんのスタイリストをしていた頃、私と寛斎さんは恋愛していたといえると思うの。お互いの才能に惚れる、そういう恋愛もあると思うの」
音楽界きってのファッションアイコンのボウイの、もっとも有名な衣装が生み出される前には、ヤッコさんと寛斎さんの出会いが不可欠なものとしてあった、そのことを感慨深く思う。
2013年に開催されたデヴィッド・ボウイ展『DAVID BOWIE is』の会場でメインに扱われ、もっともインパクトがあったのは寛斎さんの衣装だった。会場に流れている映像で寛斎さんは、若き日の自分とボウイが出会ったことによって爆発した奇跡的な(今となっては「歴史的な」といえる)化学反応について語られていた。
ロンドンでショーを行ったときのヤッコさん、30歳。寛斎さん27歳。
翌年、ヤッコさんが出会ったときのボウイ、25歳。
ヤッコさんの捉え方でいえば、デヴィッド・ボウイとヤッコさんにも恋愛の時期があったといえるのではないかと思うのだ。さらに言えば、鋤田正義さんとボウイのあいだにも。
性差を超えて、互いの才能に心底惚れてリスペクトし合う関係、これほど崇高な関係はないと思える。そして、その関係から生み出されたものが、半世紀経った今なお、世界中の人々に夢と感動を与えてくれていることの素晴らしさよ。
「私には、とくにこれといった才能があったわけじゃないけれど、歴史的瞬間に立ち会うことになる才能だけはあったと思う」
これも度々、ヤッコさんの口から聞いてきた言葉だ。正直で謙虚なヤッコさんらしい言葉だ。