久しぶりの人も、
初めての人も!
松山さんが教える
台湾古今〝食〟物語
フロム・1980。
写真・文/松山猛
ようやくぼくたちが、海外旅行を楽しめる日常が戻ってきた! その手始めとして最も近い海外のひとつ、台湾旅行を計画している人も多いんじゃないかな? 実は松山猛さんもそのひとりで、つい1ヶ月ほど前に久しぶりの台湾を、なんと1泊2日で満喫してきたばかりだという。しかし松山さんの台湾通ぶりは、ぼくたちとはちょっと年季が違う。もちろん最近発売された『BRUTUS』に影響されたわけでもない。この国との深い縁をもつ彼は、40年以上前から数えきれないほどの旅行を繰り返し、1990年代に一大旋風を巻き起こした台湾ブームの最前線に立ってきた。それこそ『BRUTUS』で初めて台湾特集をつくったのも松山さんなんだぜ!? というわけで、今回はこの愛すべき南の島・台湾の今昔について、食文化を中心に綴ってもらった。次回はお茶の世界も教えてくれるそうだから、楽しみにしてほしい!
日本統治時代の名残を残した
1980年の台湾
今、台湾旅行が若い人にも大人気のようだ。日本からも近い距離にあり、人々が親日的であることや、何を食べても美味しいグルメの国であることなども、近年の大人気の秘密なのだろう。
ぼくが初めて台湾に旅したのは1980年のことだった。台湾にルーツを持つ家内との間に生まれた長男を、台湾中部の朴子(ぼくし)という町に暮らす曾祖母に会わせるというのが一番の目的で、さらに台湾各地に暮らす親類縁者に結婚のあいさつをすることも大切な理由だった。
家内の父親は、映画にもなった嘉儀(かぎ)農業高校の野球選手で、戦前に日本本土の球団に入ろうとやってきた人物。
そう、その戦前の時代の台湾は、日清戦争の結果日本に割譲された、日本の領土の一部であり、沖縄の先にあるひとつの県だったから、当時の台湾の人は日本人であったわけなのだ。
家内の母親も台湾の中部の出身で、その義母の兄弟の方々はみな日本語で教育を受けていたので、とてもきれいな日本語を話していた。そして彼や彼女から様々な台湾の歴史や文化について、その旅の折に教えてもらったのだった。
ぼくたち日本人は
なぜ台湾料理に惹かれるのか?
たとえば台湾料理の多くが日本人の口に合うのは、およそ50年に及ぶ日本統治時代に、台湾の料理の基本である福建の閩南(びんなん)料理の味と、日本の味覚が混ざり合ったからだという話には、大いに納得するところがあった。
台湾料理にも、日本と同じように鰹節出汁が使われるし、寿司やおでんなどの日本料理も、今でも日常に食されているのだ。
台中の町に暮らしていたおばさんに連れて行ってもらった「民生米糕(ミンションミーガオ)」という店は、よく煮込んだ豚そぼろ肉や煮卵を、もち米のおこわの上にかけて食べる、いわば魯肉飯のおこわ版だが、これが極めて美味く、たちまちぼくのお気に入りとなった。そしてその付け合わせとして供されるスープが、鰹節味のすまし汁でこれもまた美味なのだった。
そして台湾には共産党との内戦に敗れ、台湾に避難してきた蒋介石率いる国民党の将兵やその家族、役人などと共に中国各地出身の料理人も大勢やってきたから、広大な中国全土の料理が食べられるようになったのも、歴史のいたずらかもしれない。
北京、上海、広東、四川、広州に始まり、雲南や湖南、回教料理までが、台北などの都市にはあり、そのバラエティーの豊富さに驚いたものだ。
作家の邱永漢さんが営む「天厨菜館(テンツウサイカン)」などの高級な料理もいただいて、中国料理の神髄にも触れることができたが、どちらかと言うとぼくは台湾の庶民の味に、一目惚れをしてしまったのである。
それは切り干し大根が入った卵焼きや、シジミの醤油漬け、魯肉飯、粽(ちまき)などなどの、お手頃価格の美食たち。朝ごはんにいただく白粥やサツマイモの入ったおかゆの副菜として出てくるのは、豚肉のそぼろの肉酥(バーソ)や炒ったピーナッツ。さらに鹽蛋(シエンタン)といって塩漬けにしたしょっぱい玉子などなど。また飯團(ファントアン)と言う、肉酥や揚げパンのような油条(ヨウティヤオ)、ザーサイなどが入った、食べ応えのあるおにぎり。軽めがよいという人には豆乳や豆花という大豆由来のものに、葱餅のようなもの。三明治と書かれるサンドイッチなど、様々なメニューの屋台が、街角のいたるところにある。
1980年代のある時、田舎町にあるお粥などの朝食を自転車で売り歩くおじさんの店で、家族でたっぷり食べたお代が、日本円でたった200円ほどだったのに驚いたことがあった。その時代の台湾では海鮮料理がブームで、よく食べに行ったものだ。
店の入り口のところに、ずらりと並べられた魚介や野菜などの素材を、揚げる、焼く、蒸すなどと、調理法を相談してつくってもらう。小型の海老を塩ゆでしただけの清蒸(チンジョン)蝦は実に美味しくて、まだ小さかった息子がいっぱい食べたことに皆が驚いたことがあった。大きさこそ違うが、昔ポルトガルの海辺で食べた、塩ゆでの蝦がとても美味だったことも思い出された。
1990年代に掘り起こした
ディープ・台湾
仕事柄、雑誌の取材にもよく出かけるチャンスに恵まれた。『週刊朝日』『BRUTUS』NHK出版の『H2O(エイチツーオー)』などだが、出かけるたびに台湾の持つ魅力に引き込まれるようになったのは言うまでもない。
『週刊朝日』の取材では台北を離れ、東部の港町である花蓮(かれん)や、絶景の大渓谷太魯閣(タロコ)にも足を延ばした。
ちょうど花蓮では台湾原住民のアミ族の人々の、収穫祭を取材することができた。ぼくが取材予定を告げると、台湾新聞局の人がその祭りは興味深いから行ってみてくださいと、アレンジしてくださったのだった。
昔ながらの民族衣装に身を包んだ、アミ族の男たちの踊りも迫力だったけれど、何より面白いと思ったのは、お年寄りの戦士が身に着けていた、コルクの皮で作られた鎧のようなものだった。コルクの皮を大きく剥がしただけのものだが、その丸みが人間の体にちょうどぴったり沿うのだった。
この時にいただいた竹筒飯も忘れられない味のひとつとなった。台湾にはどこにでも竹林があり、その竹を使って様々な道具を作り、またタケノコをいろいろに加工した伝統食材もある。竹筒に米と適量の水を入れ、それに蓋をして火にくべると竹筒飯が出来上がる。竹の持つほのかな香りをまとったこのご飯のおかずには、豚肉と野菜の炒め物や、ゆでたタケノコに台湾風のマヨネーズをたっぷりつけていただくのだった。
台湾ではどんな辺鄙な田舎に行っても、必ず美味しいものに巡り会えるのが楽しい。めったにまずいものに出会わないのが不思議なくらいなのだ。
『BRUTUS』で
初めてつくった台湾特集
『BRUTUS』では〝ラテンアジアに陽が昇る〟というタイトルで、台湾大特集を組んだ。
当時台湾で一番という評判をとっていた、創作料理の店「馥園(フーエン)」のフカヒレ料理や、大ぶりのアワビの料理など、贅沢三昧の取材だったが、女性店主の楊さんがワインやフランスの食材にも詳しく、フォアグラの中華風料理にワインを添えて供してくれたのには感激した。
この楊さんを通じていろいろな美食の店も紹介してもらえたが、のちに小籠包で有名になった「鼎泰豊(ディンタイフォン)」もその一軒だった。その頃はまだ台湾にも支店を出さない時代だったから、もちろん日本での展開はないので、帰国する朝に無理を言って冷凍したものを譲ってもらって帰った。だからおそらくその当時、日本で『鼎泰豊』の小籠包を家庭の食卓で食べていたのは、我が家くらいだったろうと思う。
残念だが最近は口蹄疫などの動物の疫病のせいで、肉類の日本への持ち込みが禁止されているから、もうあのような贅沢な持ち帰りはできなくなってしまった。
ぼくが目覚めた台湾茶についてもたくさん取材をして記事にしたが、その話はまた別の機会に譲るとしたい。
飲み物といえば近年台湾発のタピオカミルクティーが日本でも大流行していたが、昔の台湾の旅ではあまり見かけることはなかった。当時よく飲んだのはグアバジュースなど天然果汁の飲み物だった。
台湾は気温が高く、また湿度も高い気候の島だから当然のように汗をかくから喉が渇く、だから友人や家族で円卓を囲んで宴会となると、酒の飲める大人以外の子供やアルコールに弱い人は、こうしたジュースや茶を飲むのだ。そして宴会となると、何度もスープ状の料理が出てくる、これも台湾ならではの食卓風景に違いない。
台湾中部の彰化(ジャンホワ)という町で、ある親戚との宴会の時にものすごく小さな貝柱の前菜が出てきた。それはおそらくしじみかあさりの貝柱と思われたが、それを取り出すのは並大抵の苦労ではないはずだ。それ以来二度と見かけることがないから、よほど苦労の必要な食材だったのだろう。
ある時期によく出てきたのは椰子の芽の料理だった。またマコモや龍の髯と呼ばれる野菜類も、日本ではあまり見かけることのない食材といえるだろう。
何しろ台湾は食材の宝庫のような環境にあり、南部の方では米の二毛作どころか三毛作のところもあるそうで、米は完全に自給されている。日本の米ほど粘り気はないのだが、それでも各地に名産の米があるようで、ぼくはおこわに使われる台湾のもち米がお気に入り。
台北旅行で外せないのは、豚肉をとろんとろんに煮込んだもので人気の「富覇王(フーバーワン)」という店。かなり濃い味付けのその煮汁で、三枚肉や豚足、豆腐、青菜などをいただくのだが、ここはあまり大きな店ではないので、早い時間に並びにいかないと席を取りにくい。また持ち帰りの弁当的なものも人気があり、それを求める人の列も凄いのだ。ここに行くと豚や豆腐のほかに、大根の入ったスープと魯肉飯を必ず食べる。あまり待つのは好きではないけれど、この店だけは我慢して並ぶのだ。
もう一軒の定番は北京ダックの店「聚園餐廰(チィーユェンツァンティン)」。ここでは鴨の皮だけではなく、身の部分もたっぷり出されるし、骨回りは春雨や野菜の入ったスープにして供される。ほかにも昔ながらの北京の料理や、台湾の料理があるので、大人数で食べに行くのによろしい。
台湾の食文化を守る
〝みんなの台所〟
台湾の人たちの多くは、家庭で料理をつくらなくても、朝早くから夜遅くまで、外食の店や屋台が営業しているので、その場で食べたり、テイクアウトして職場の昼ご飯に食べたり、また持ち帰り料理を家庭で食べるなどする人が多い。
ぼくが感心したのは、台湾には家族で契約していつでも食事ができる〝みんなの台所〟的な食堂があることだ。共働きの人が多い都会の家庭でも、放課後の子供がそこに行けば夕食を食べることができるし、家族と待ち合わせて一緒に食べることもできるので、鍵っ子でもおなかを空かせることがない。今、日本では貧困家庭が増え、子ども食堂が各地にできているけれど、この食堂はそれとはちょっと違う。この地で長年培われた豊かな食文化を守りたいという台湾の人たちの思いがこもった、心温かい食堂システムなのである。
牛肉麺は
台湾料理じゃなかった?
台湾の料理に使われる肉類は、まず豚肉と鶏肉が中心だ。鳥類の肉には鵞鳥(ガチョウ)や家鴨など様々なものがあり、それらが市場には並ぶ。生きたままのも売っているし、捌いたものももちろんある。
しかし昔の台湾の人は、ほとんどが牛肉を食べることはなく、その理由というのが牛は農耕を手伝ってくれる存在であって、そんな可愛いい働き者の家族のような存在を食べる気がしない、と何人もの人から聞いたことがあった。
そんな台湾でも牛肉麺の人気は高いが、そもそも牛肉麺というものは、大陸の外省から来た人々が持ち込んだものだった。つまり第二次世界大戦のあと日本の統治が終わり、入れ替わるようにして蒋介石とともに大陸からやってきた人々の好む料理だったということだ。だが最近では若い人の好みにも合う麺料理のひとつとして、人気が高くなったというわけなのだ。
台湾料理のルーツは
台南にあった!
台湾料理の故郷といえば、やはり古都台南である。この台南はかなり古くから、福建などから移民してきた人々によって栄えた町であり、ある時期にはオランダ人がやってきて、東インド会社の東南アジアにおける拠点として統治された時代もあった。
そのオランダ人たちを台湾から追い出したのは、明国の将軍を父に、そして日本人を母に持つ、長崎出島生まれの鄭成功(ていせいこう)という人物だった。この鄭成功の物語は日本でも『国姓爺合戦(こくせんやかっせん)』として、浄瑠璃や歌舞伎の演目になるほどのものとして知られている。
台南の名物料理は、たくさんの具が入った粽(ちまき)や、割包(グァバオ)という台湾風のバーガーで、ふんわりとした饅頭(マントウ)の皮を割り、そこにおいしく煮た豚バラ肉や、味つけ玉子をはさんで食べるもの。
海に面した台南の町はカラスミの製造でも有名であり、スライスしたカラスミをすこしあぶったものを、ニンニクと薄切りの大根とともにいただく。これはアジア産のキャビアともいえるような珍味であり、酒がとても進むのだ。
酒の肴といえば、蜆(しじみ)の醤油漬けの〝ラーアー〟がたまらなく美味しい。半生に仕上げて大蒜の風味を利かせた醤油の味がしみ込んだこれがあれば、まずはほろ酔いの最高の友となる。
さて、ぼくが最も好きな台南料理といえば、老舗の「阿霞飯店(アーシィアレストラン)」でいただく、ワタリガニのおこわ、紅蟳米糕(ホーン シュイン ミー ガオ)だ。
ワタリガニを包丁でたたき切り、もち米の上に様々な食材を載せて蒸し上げるこのおこわは、なんともいえぬ滋味で、台南に行くと必ずいただくマストメニューである。
ぼくとともに台湾の食と茶の世界を満喫する仲間たちとの旅では、まずこの店で台湾料理の神髄とも言える料理をいただくことが、スタートの習わしとなっている。
2023年、台湾のグルメ事情
さてひところの台湾では、湖南料理が流行したことがあった。代表的なメニューは竹の筒で蒸し上げる鳩肉の団子の入ったスープや、蜂蜜などで煮あげたハムを薄いパン状のものではさんで食べる蜜汁火胯(ミージーフオトェイ)。翡翠色の細い麺を様々な具材と混ぜ合わせて食べる翡翠麺などをよく食べたものだが、最近はあまり湖南料理の店を見かけなくなったのは残念なことだ。
しかし昔から人気の高い庶民的な屋台料理などは、今でもそのほとんどが盛況で、焼きたての胡椒餅や小さな牡蠣の入った玉子焼の蚵仔煎(オアチェン)や、ふかしたての肉まんの饅頭(マントウ)などなど、おいしいものがふんだんにあるから、台湾では食べることに困ることはない。
台湾はその中央に高山の山脈があり、また常春の国でもあるから、スイスとハワイが同居している国とも言われる。
だから夏場にはマンゴーかき氷のような、人気の甘味もあり、若い人を中心にその人気は高い。マンゴーは5月を過ぎると出荷されるので、そのフレッシュな果肉をふんだんにカットしたかき氷に人々が群がる。
台北で最も人気があるのが「氷讃(ピンザン)」という店で、ここにもぼくは家族や仲間とともによく出かける。
今や日本各地に支店を広げている、小籠包で有名な「鼎泰豊(ディンタイフォン)」という店は、もともとは伝統的な油を商う店だったという。しかし1970年代以降、台湾でもサラダ油のような西欧由来の油がポピュラーになり、伝統的な油があまり顧みられなくなったことから、自分たちの家庭で食べていた上海風の小籠包の店に思い切って転業。New York Timesのグルメページで、世界の美食のひとつとして紹介され、人気となったと聞いた。
小籠包といえば昔、迎賓館を兼ねていた国営の「圓山大飯店(ザ・グランドホテル)」の一角に点心を食べさせる店があり、そこの名物のひとつが小籠湯湯包(ショウロンタンタンパオ)と呼ばれるものだった。それは通常の小籠包よりうんと小さな、小指の先ほどの大きさの小籠包を、スープに浮かべて食べるというもので、これが出るのは週末だけという、ごく限定のメニューだった。その厨房で美味いものをつくっていたのも、蒋介石とともに海を渡ってきた料理人に違いなかった。
残念なことに圓山大飯店も民営化されてしまった今、その点心の店もなくなってしまったが、「鼎泰豊」や「明月(ミンユエ)」などの、おいしい点心の店がたくさんあるので、存分に楽しむことができる。ただしあの幻の小籠湯湯包には、もう二度と巡り合うことは叶わないだろうけれど。
台湾は1泊2日で楽しめる!
コロナ禍によって、それまでのように気軽に海外旅行ができなかった3年間だったが、ようやくそのトンネルの先が見えたとき、真っ先に出かけたのが、やはり台湾だった。ぼくら夫婦と娘夫婦とその娘、総勢5名で早朝発の便に乗り台北に向かい、その夜に一泊して、翌日の夜遅くの便で帰国という、いわゆる弾丸旅行だったが、おいしいものを5食食べての、大満足満腹旅行となった。
なんでそんなにタイトな旅行をしたかというと、ぼくはワクチンを打てない体質なので、PCR検査の有効期限中に旅する必要があったからなのだ。しかしもうこの5月で、感染症の分類が、2類から5類に替わると、ワクチン証明なども不必要になるらしいので、だれもが海外に気軽に出かけることができるようになるというわけだ。
日本からも近く、親しみの持てる国の台湾は、ますます注目の旅先となるだろう。