珈琲を飲んで
泣きたくなったら。
秩父の小さな喫茶店
「珈琲道 ぢろばた」の
過去、現在、未来、永遠。
(前編)
撮影・文/山下英介
あなたは偶然入った喫茶店で飲んだ珈琲に、なぜだか心を揺さぶられたことがあるだろうか? それはお酒とも紅茶とも違う、珈琲という黒い液体だけがもつ不思議な力。今回お届けするのは、そんな珈琲の魔性に魅せられて、秩父で半世紀にわたって「ぢろばた」という小さなお店を営む、ひとりのおじさんの物語。…………ボーン―――――ボーン――――――ボーン……………。始まりの合図は、柱時計の鐘の音。
「こだわり」について
中島洋 ・・・「こだわり」という言葉のほかに、なにかいい言葉ないですかね?
これは結構悩ましいところですね。
中島 あっ、ヤマシタさん、ご存知なんですね。うれしいです。私、お客様に「こだわってますね」なんて言われて、その昔は喜んでいましたけどね。最近なんかその、お客様に「こだわりの店ですね」なんて言われると気分があんまりよくなくて、自己吟味しても他の言葉が出てこないんですよ。・・・いい言葉が見つからないんです。
もともとは「拘泥する」みたいな意味ですからね。でも私のように文章を書く仕事をしていていると、便利な言葉だからついつい使ってしまいがちなんです。
中島 すごく便利な言葉ですよね。でも、本当に〝こだわっている〟方は、その言葉にちょっと嫌な反応を示すかもしれません。そして、本当に〝こだわっている〟その方が返す言葉は「まだ道半ばだよ」なんてね(笑)。こだわるとまわりが見えなくなってしまう可能性が高く、意外と成果を損ねます。
珈琲豆に謝りたい
中島 いやいや、こんな立派なメディアのラインナップに私なんかが並ぶのは恐縮で。
そんなそんな。私は最近、食やファッションの取材を通して、すごく悩んでいることがあるんです。
最近の世の中って、「いい素材」と「優れた技術」、そして「正しいレシピ」とを掛け合わせればすぐにいいものができるという、単純な掛け算の発想が主流になっていると思うんですが、世の中それほど単純じゃないなって。本当に美味しいものや素敵な服は、そういう理屈からは生まれてこないような気がするんです。
じゃあその真髄がどこにあるのかと言われると、全くよくわからなくて(笑)。今日は、ぼくがマスターの珈琲から感じた、理論を超えた〝なにか〟を探りたくて、お邪魔した次第です。
中島 ヤマシタさん。これはちょっと失礼な言い方かもしれませんが、許していただけますか?
はいっ・・・!
中島 すごいところに到達されましたね。
えっ? ・・・あ、ありがとうございます(笑)。
中島 そんな偉そうなことを言うお前は、じゃあその位置に到達したのか?ということですから、誠に失礼。でも私もそれを探って、探って、探り抜いているところなんです。つまりなんなんだろう?っていう。
私が踏み込んだこの珈琲道(こーひーみち)は、順調にいくならば、ハイキングや遠足のように蝶々を追いかけたり草花を見ながら、ゴールまで本当に楽しい道だったはずなんです。ところが実際は蝶々は飛んでいない、花は咲いていない、石ころだらけの道で、凸凹だったり急坂だったりまわり道だったりで。うわ、なんなんだ、珈琲って。こんなはずではなかったのに。・・・月並みな言葉でいうと、参りましたね。お手上げです。珈琲にねじ伏せられています。
ぼくたちには計り知れない奥深さがあるわけですね。
中島 私にはプライドがあるからできませんが、このプライドさえなければ、珈琲豆の前で謝りたいくらいです。どうか今までの俺の態度を許してくれと。なんとか、なんとか、頼むから究極の味を、最高の味を教えてくれ、とか言って。そうすれば、ようやく珈琲豆が「ちょっと遅かったけど人間よ、お前の偉そうな態度をまあ許す」なんて(笑)。
豆に謝りたい!
中島 今ヤマシタさんがお飲みになっているAブレンドは、ブラジル、コロンビア、シダモ(エチオピア)、グアテマラで、その時々によって配合比率は変えているわけですが、それも4:2:2:2なのか、3:2:2.5:2.5なのか、日々悪戦しております。
善戦ではなくて苦しい戦いです。
またメンバーチェンジですね。このブラジルを引っ込めて、代わりにコスタリカをベースに持ってきたらまた味は変わるでしょうし、コロンビアでなくホンジュラスを持ってきたらそれもまた変わるでしょう。ですからこれ、完成の味ではないんです。そんな未完成の珈琲を520円で売っているという卑劣さ・・・。恥ずかしいくらいです。
日々進化しているわけですね。
中島 完成したら3種類くらいに絞りたいですね。お客様が来られて「ニューギニアください」「ありません」「マンデリンください」「ありません」「前はあったよね?」「申し訳ありません。ストレート珈琲はやめました」「じゃあ何があるんだよ」って言われたら「このA、B、Cの3種類のブレンドからお選びください」っていうところまで持っていきたいんですけど。
それなのに、こういう世界各地の色々な豆を取りそろえているのが、私の卑劣さ、卑怯さ、弱さです。これで〝とりあえず〟珈琲専門店の面子をキープしているわけです。本当なら絞り込んで、絞り込んで、「苦めの珈琲がよろしいですか? それともそんなに苦くなくそこそこ酸味のある珈琲がいいですか?」くらいにしたいですね。でもそれができない。
50年続けても、まだたどり着けない境地があるんですね。
珈琲との出会い
秩父における表参道、番場通りの付近にある「珈琲道 ぢろばた」。その静謐な空閑の一部になり珈琲と向き合いたい方は、ぜひ一度行ってみてほしい。
もともと中島さんはこの秩父が地元だったんですか?
中島 実家を壊して珈琲店にしていますので、私はそのあたりの縁側に置いたタライの中でおぎゃあ、おぎゃあと生まれております(笑)。
あ、まさにこの場所でお生まれになったんですね!
中島 はい。隣にある和菓子屋の3代目でしたから、父のすすめで県南の商業高校に入ったんです。下宿させてもらって。でも、会計とか経済とか簿記とかを学んですぐに「あ、これはいやな世界だな」と。その頃から資本主義経済に嫌気がさしましたね。そしてありがたいことにクラスメイトが協力してくれましたから、授業中に教室の後ろから抜け出しては、浦和から京浜東北線に乗って東京の喫茶店に通うんです。「おい、どこへ行く!」なんてチョークを投げてくるような熱血教師もいませんでしたし。ですから私は高校1年生の頃から喫茶店に入り浸っております。
じゃあ、ちょっと不良ですね(笑)。
中島 不良です。でもそれくらいショックだったわけです。来る日も来る日も金儲けの話をすることに。ただ、父には頭が上がらないですけどね。和菓子屋を継がせるつもりで商業高校に入れたのに、息子は授業を抜け出して喫茶店でタバコを吸いながら珈琲を飲んでいるわけですから。父が今ここにいるならば、本当に申し訳ないと謝りたいですね。
当時はどんなお店に通われたんですか?
中島 渋谷の「純喫茶ライオン」とか神田の「白十字」はまだ残っていますかね? あとは珈琲店なら銀座の「カフェ・ド・ランブル」にはよく足を運びました。
「白十字」は閉店されましたが、渋谷の「純喫茶ライオン」はまだ健在です。あと銀座の「カフェ・ド・ランブル」は超有名店ですね!
中島 あそこはまずかったですね。
そ、そうですか・・・(笑)。
中島 私が通っていた頃はまだ銀座寄りにお店があったんですが、あそこはスプーンが付かなかったんですね。で、私が「マスター、スプーンください」って言ったら、叱られましてね。「私の店ではスプーンなんてつけない」って。しょうがないから飲んだらまずくて・・・。ちょっといただけなかったですね。
まだ若かった当時の私にとって、珈琲とは作家の松本清張氏のように砂糖を入れて、スプーンでかき回して、その上にクリームをそっと浮かべて楽しむものでしたので。巨匠である故関口一郎マスターには大変失礼な態度をとってしまい、申し訳なかったと思っています。その後、現在の場所に移転してからは、関口一郎マスターはお客様の声を聞いて砂糖を置きスプーンを付けるようになりましたが。
関口一郎さんはある意味では珈琲の世界における権威ですよね。
中島 「カフェ・ド・ランブル」の初期は徹底的にこだわっておられましたね。関口一郎マスターは〝珈琲の神様〟と謳われ、北海道から九州まで、珈琲店を開いている人は必ずそこに足を運ぶという、喫茶店経営者にとっての憧れのお店なんですね。私も尊敬しております。
殴られながら「喫茶店をやろう」
そんな中島さんが珈琲店の道に進んだのは、どういうきっかけだったんですか?
中島 3年ぶりに偶然出会った中学時代のクラスメイトの女子と羊山公園に行って喋っていたら、4人のお兄さん方に殴られたんですよ。
えぇっ?
中島 それで殴られているときに「そうだ、喫茶店をやろう」ってひらめいたわけです。
すみません。ちょっと突然すぎて話が見えないんですけど・・・(笑)。
中島 学ラン着た学生さんが、昼間っから女の子連れてイチャイチャするんじゃねえよっていうことですよね。そのときに私はこう思ったわけです。自分が今殴られ蹴られている理由は、秩父にあった「アカシヤ」や「アザミ」といった喫茶店が混んでいて入れなかったことにあると。「アザミ」でクラスメイトと珈琲を飲んでいれば殴られることはなかったわけですから。
袋叩きにされながら、そういう発想に辿り着いたわけですね!
中島 不思議ですねえ・・・本当に。非常事態にあたって脳からなにかの物質が分泌されたのかもしれません。だから、全然痛みは感じませんでしたし、全く憎しみも湧きませんでした。皆さん私より年長でしたが、もし4人の方が生存されていたら、その節はどうもとお礼を言って、珈琲をご馳走したいくらいです。もしふたりで喫茶店に入れていたら、私は和菓子屋の3代目として羊羹やお饅頭をつくっていたわけですからね。
4人の不良が人生の恩人なわけですね(笑)。
中島 そのとき一緒にいたクラスメイトは私の自転車に乗って逃れることができたわけですが、誰だか思い出せないんですよ。彼女には失礼なんですけど。
もう喫茶店で頭がいっぱいになってしまったんですね!
中島 「そうだ、喫茶店を開こう」っていう思いの方が膨れあがっちゃった。そして傷だらけの顔で「喫茶店をやりたい」と父に伝えたらダメだと言われました。それで話し合った結果、秩父を出ることになったんです。
そこで珈琲修行が始まったと! どこかに下宿でも借りたんですか?
中島 下宿なんて探す必要がないんです。というのは、当時の喫茶店は、お店の前に「カウンターマン募集 住み込み」なんてビラが貼ってあるいい時代でしたから。ですから、給料そのものは少ないのですが、狭い2畳間くらいの寝るところは確保してくれていたんですね。ある時は2、3人。またある時は5、6人。今思えば楽しい雑魚寝ってやつです。いつの頃からか諸官庁が顔を出してきてうるさくなったみたいですが。あの頃は非常に大雑把でしたねえ。
最初に勤められたのはどちらだったんですか?
中島 もう記憶が薄くなってしまったのですが、池袋の東武デパート近くにあった「ウメヤ」というお店だったと思います。それからずいぶん転々としました。一番短い店は3日で辞めていますから。
辞めちゃうんですね。
中島 その当時大流行の毛皮を着た有閑マダムがお店に来て、私たちに向かって手を叩いて「私のレモンスカッシュ、まだなの?」なんて言うじゃないですか。そうするとウェイトレスは「はい只今〜」なんてとりあえず答えておきます。するとホイキタとばかり、カウンターマンは故意にチェリーやレモンスライスを床に落とし、それを拾い上げてレモンスカッシュに入れて「ハイ レスカ アガリ」と提供。これが普通の光景です。当時の喫茶店のカウンターの中は、常にイライラしていたんですよ。ですからヤマシタさん、今でも喫茶店や飲食店の客になった場合はおとなしく待っているほうがいいでしょう。
そうします(笑)。
中島 ・・・つまりそんな店にはいられないと次の店を探します。
なるほど(笑)! 当時は喫茶店の全盛期ですから、とにかく賑やかだったんでしょうね。
中島 そうです。喫茶店文化は盛んでしたねえ。まだスターバックスもドトールもない時代のことです。
珈琲は世界をひとつにするのか?
中島 私は東京オリンピックが開催されたとき、国立競技場の近くにあったコロンバンの喫茶部門に在籍していました。店側は4人のカウンターマン、10人のウェイトレス、4人の通訳を備えて対応したのですが、毎日本当に立錐の余地もないという状況でした。そして初日の閉店後に行われたミーティングで、選手やジャーナリストを含めた外国人客のほとんどが、日本の珈琲を絶賛していたことを知るのです。
リップサービスなのかな?とも思ったのですが、私たちカウンターマンはオリンピックの開催期間中、毎日耳が痛くなるほど、お褒めの言葉をいただきましたね。「私は金メダルはおろか入賞すらできなかったけど、こんなに美味い珈琲に出会えて、本当に東京オリンピックに来られてよかった」なんて。そのときに私は思ったんです。「珈琲は世界をひとつにする」と。
60年も昔に、日本の珈琲がそこまで外国人を喜ばせていたんですね!
中島 若気の至りですねえ。珈琲には世界をひとつにする力なんてないですよ。それがあったら戦争なんて起きません。たかだか120ccの黒い液体です。しかし60年前の私は、これほどまで世界の人々が日本の珈琲を褒め称えるのを目の当たりにして、珈琲の力を感じたんですね。そのときにコロンバンが使っていたのは、鍵のマークのキーコーヒーでした。
私、ヤバいですね
「ぢろばた」の前にも、お店をやられていたんですか?
中島 秩父の御花畑の駅前で、「ガーナ」という喫茶店を3年半ほどやっていました。そこは紅茶やジュース類、コーラにサンドウィッチも置くようなお店でしたが。
あ、そこはたたんでしまったんですね。
中島 というのも、当時学生運動の連中の一部が秩父に逃れてきて、私のお店が彼らの溜まり場になってしまったんです。シンナー遊びも盛んでした。そんな店ですから、私も秩父警察からマークされてしまって。
もともとマスターも不良だったわけですからね(笑)。
中島 その通りです。私も東京にいた頃は機動隊とやりました。
・・・なるほど、そういう色々な事情があって「ガーナ」を閉められたと。
中島 そうですね。それと付け加えますと私の失恋ですかね。相手は「ガーナ」の常連客でしたから。大失恋・・・ショックでしたね。
ああ〜、そういうことですか(笑)! それで心機一転やり直して「ガーナ」から「ぢろばた」になると。マスターの中には権力や権威に対する反抗心があるんですね!
中島 ありますね。私・・・ちょっとヤバいですね・・・(笑)。私がもうちょっと若かったら、いや今でも危ないと思います。
具体的な行動を(笑)。
中島 昔、もう亡くなった常連客とふたりで三菱セメントに爆弾を投げる計画を立てまして。
ああ〜、それは秩父の社会問題となっていた武甲山の開発に反対して。
中島 はい。隅のほうから慎ましく掘っているだけならよいのですが、三菱セメントは武甲山の真正面から掘り始めてですね。これは許せないということで、ふたりで計画を立てました。残念ながら肝心のダイナマイトが手に入らなくなってしまい実行はできなかったのですが。
今の姿からは想像もつきませんが、「ガーナ」の頃は血気盛んだったんですね。
中島 いや、「ぢろばた」を始めてからです。
そ、そうですか(笑)。
中島 成功させることよりも、私が逮捕されることによって、武甲山が崩されることを諦めた秩父市民たちも少しは考えてくれないかなと。私が子供の頃、武甲山は本当に美しい山だったんですよ。それが今はあんな禿げ山になってしまって。本当に残念でたまりませんね。
秩父について
昨今の秩父ブームは、マスターはどう捉えていらっしゃるんですか?
中島 私は全く。つまりヤマシタさんが完全にフラットな気持ちで秩父に来て、色々とご覧になれば、もう二度とここへは来なくていいか、というものが見えてくると思いますよ。
「小池煙草店」や「食堂パリー」など、一部の本物を残してみんな紛いものです。みんなつくりものです。みんなこしらえものです。すぐそこの番場通りにしてもそうです。市からもらったお金でとってつけたようなファサードをくっつけて。・・・ほんものではないんです。感動が伝わらないんです。
そんなものをつくるよりも、昭和の時代そのままでいいんです。電信柱だって木でよかったし、足元だって砂利や土でよかった。雨が降ったらぬかるみになるくらいにしておけば、これは素晴らしいことだと思うのですが。
観光地の同質化の問題は、日本全国で起きていますよね。
中島 結局その背景にあるのは、瞬時にお金にしたいという願望ですよね。
マスターは「ぢろばた」をオープンするとき、すでにそういう商業主義は捨てたんですか? もう俺は一生お金持ちにならなくていいという。
中島 ええ。それは商業高校の一年生のときに捨てました。私がそれにあたってとった方法は実に卑怯なものでしたが。つまり実家の事業から逃げちまって、東京の喫茶店で珈琲を飲んでいた。ですから、もともと私にとって珈琲とは現実からの逃避でしたね。〝逃げ〟です。お恥ずかしい限りです。
中編はこちら!
- 珈琲道 ぢろばた
1974年に秩父で創業した珈琲専門店。できればひとり、多くてもふたりで、静かに珈琲と向き合いたい空間だ。
定休日は木曜日。珈琲以外のメニューは一切ないのでご注意を!
住所/埼玉県秩父市東町9-14
TEL/0494-24-3377
営業時間/14時頃〜19時頃
定休日/木曜・末尾に1がつく日(1日、11日、21日、31日)