2024.12.22.Sun
今日のおじさん語録
「なんのために生まれて来たのだろう。そんなことを詮索するほど人間は偉くない。/杉浦日向子」
味のマエストロ
連載/味のマエストロ

珈琲を飲んで
泣きたくなったら。
秩父の小さな喫茶店
「珈琲道 ぢろばた」の
過去、現在、未来、永遠。
(中編)

撮影・文/山下英介

日中の喧騒が幻のように静まり返る、夕暮れをすぎた秩父の街。「珈琲道 ぢろばた」で繰り広げられる不思議な物語は、いよいよ佳境へ。どうしてぼくたちは珈琲という液体に惹かれてしまうんだろう? そして、ときに涙を流したくなってしまうんだろう?  

前編はこちら!

珈琲を飲んで泣いた日

中島洋 私がこの店をつくっている途中、キーコーヒーの営業所がある大宮に行ったんですね。もともと修行先でキーコーヒーを扱っているお店が多かったもので、私もここから豆を仕入れようと思っていたものですから。その帰りに私は一軒の喫茶店に飛び込みました。珈琲、紅茶、ココア、ミルク、コカコーラ、オレンジジュース、ナポリタン・・・そういうメニューを扱っているような喫茶店です。

いわゆる町の喫茶店ですね。

中島 そこで珈琲を注文したところ、ご年配のマスターはペーパードリップで一杯だてしていたんです。あれ、珍しいなと思いました。当時の喫茶店は、開店する前にマスターが20杯から30杯分の珈琲をネルドリップでつくって、あとは加熱して出すのが普通でしたから。ところがそのマスターは、私のための珈琲を、カリタのドリッパーを使ってペーパードリップで淹れていましたから、これはラッキーだなと思いました。そして出てきた珈琲を飲んだんです。

・・・なんだこれは。「・・・」「?」「!」

・・・私はもう泣いていました。老マスターから遠く離れた窓際の席でしたし、客も私ひとりだったので。大声で。男泣きです。

・・・なにこれって。泣く以外に手段はありませんでした。

・・・後にも先にも、私の人生であれほど泣いたことはありません。失恋してもあれほどは泣きませんでしたから。あれはうまい・・・うまかったですねえ・・・あの珈琲は。なんという、うまい珈琲。たった一杯です。たった一杯。私は82年の人生でどれほど珈琲を飲んだかわかりませんが。私はその男泣きした珈琲をなんとか再現したいという思いで、あの日から今日まで50年、悪戦、そして苦闘して、白旗あげて、もう参った!っていうところなんですよ。

そのお店はもうやっていないんですか?

中島 当時すでに老マスターでしたので、後継ぎはいなかったと思います。喫茶店経営は大変ですからね。ちなみに私を泣かせた珈琲は、アートコーヒーでした。

珈琲の師匠と
ドトールについて

中島さんには珈琲道における師匠はおられたんですか?

中島 いません。ただ、東京の外神田で「らんぷ屋」という自家焙煎珈琲専門店をされていた赤松マスターは、私にとって師匠といえるような方で、長年にわたって色々と教えてくれました。ヤマシタさん、これを見てください。

ああ、とても年季の入ったドリッパーですね。

中島 これは赤松マスターが私にプレゼントしてくれたものなんです。ですからどんなにボロボロになっても使っています。底の部分は赤松マスターが電動ドリルを使って穴を開けてくれたので、スーッと落ちるんです。これからも大事に、大事に使いたいですね。私がネルドリップに踏み込まない理由は、このボロボロのペーパードリッパーと、泣いたあの日の珈琲がペーパードリップだったからということです。

「らんぷ屋」さんは今もあるんですか?

中島 もう閉店してしまいました。お店の隣になんと、ドトールが出店したんです。これは卑劣とはいいませんが、仁義なき戦いでしたね。そして赤松マスターは必死に戦いましたが、残念ながら郷里の新潟に帰ってしまい、私との連絡も途絶えました。新潟で珈琲店を開いたという話も聞きませんから、珈琲に対しても、私に対しても複雑な思いが働くのではないでしょうか。私はドトールのやり方、気に食わないですね。せめて道を隔てるか、50mくらい先にお店を出すのが仁義じゃないでしょうか。本当に頭にきますね。

ですから、今の私にとって師匠といえるのは、やはり50年前に大宮で飲んだ珈琲なんです。珈琲が師匠なんておかしな話ですが、あの味が再現できればと思いやってきました。でもね、もうあきらめました。

あきらめちゃったんですか?

中島 男はあきらめが肝心っていうじゃないですか。82歳になるまで悪戦苦闘して無理なんですから、これから明日ひょいなんてできるわけないんですよ。ですからもう諦めたほうがいいのかなって。悔しいです。非常に悔しいです。

珈琲は何度で淹れるべきか?

中島 この温度計、全部狂ってるんですよ。

あ、そうなんですか(笑)。

中島 珈琲の権威と言われる方々が、みんな何度で淹れるようにって、蹇々諤々(けんけんがくがく)言っていますが、あんなのはみんないい加減ですね。NHKのTVでは87℃とか言うと、日本全国87℃で淹れるようになっちゃう。ある方は63℃だとか、いや64℃だとか。またある方は95℃だとか、大の大人たちがわずか1℃の違いに関して議論しているわけですから面白いですね。それだけ珈琲というものはのめりこんじゃうみたいですね。

でも当然、場所とか気候とかで色々変わってきますよね?

中島 春か夏か、台風が近づいているか、どんな珈琲豆かで違ってきますから。・・・今日はイマイチ落ちが遅いですねえ。

というのは気圧が低いとか。

中島 低気圧が近づいてきているんでしょうね。いい加減な天気予報よりも当たったりしますから、不思議ですねえ。・・・今日は70℃で淹れてみましょうか。

「ぢろばた」の核は
150歳の柱時計

このお店ができたのが1974年ですよね?

中島 ええ、150年前に米国でつくられたこのイングラハムの柱時計が「ぢろばた」のコアです。

〝核〟ですか。

中島 もともと「ぢろばた」は「珈琲店タイム」にする予定だったんですよ。ただ東松山に同じ名前のお店があったので諦めたんですが、そんなときに長野県小諸の骨董品屋さんで出会ったのがこの時計です。

さっきから素敵な音を聴かせてくれますね。

中島 日本刀や甲冑、古伊万里などがメインの骨董屋さんで、この時計はお店の片隅に積み上げられて、埃をかぶっていました。30過ぎの若造だった私は、埃を指で拭ってご主人に「この時計動きますか?」なんて言ってしまった。猜疑心満々ですよね。ご主人はそれが気に食わなかったのでしょう、聞こえないふりをする。私は耳が遠いのかな、と思って、愚かにも近づいて耳元で「この時計動きますか?」って(笑)。するとご主人が「お前さんみたいなくちばしの黄色いひよっこにこの時計を売るつもりはないから、とっとと帰れ(けえれ)、この野郎!」と言われたんです。今でもよく覚えています。

それで私も頭に来て、ご主人と口論です。するとそのご主人はケンカの途中に「お前さんいくつだ」と聞くから、私も「30だ」と答えます。ヤマシタさん、その次の言葉が「ぢろばた」につながるんですよ。

この地球の上でたかだか30年生きたくらいでデカい面するな。この時計は100歳だいね。お前さんより70年も前にこの地球に生まれたんだ。

「この国」でも「日本」でもなく、「地球」。

そのときに私、頭の中に地球が浮かんだんですよ。地球の中の小さな小さな日本、そして今いる長野県。老いたご主人の前にいる若造の私・・・。それがイメージできた瞬間から本当にもう、ご主人に申し訳なくて「失礼しました。お許しください」と私は謝りました。そうしたらご主人はにっこり笑って「持って帰れ」と言ってくれたんです。

そして時計を自宅に持って帰ってネジを巻いたら、なんとなんと見事に動きました。ですから「この時計動きますか?」なんて聞いた私は本当に失礼です。若さは馬鹿さなんですねえ。

そして私は今度つくる店を、この時計に似合う空間にしようと、時計とにらめっこしながらデザインしたんです。

なんと、この空間は時計ありきのものだったんですね!

中島 はい。この時計が150歳。私は今82歳ですから、圧倒的にすごいですね。私などあと2年か3年で死ぬことになっていますので、時計以下ですよ。人間って本当に惨めな生き物ですね。

大工の棟梁
山中隆太郎さんのこと①

中島 ヤマシタさん、私の珈琲人生におけるもうひとつのメインというかクライマックスは、この店をこしらえた山中隆太郎さんという大工の棟梁さんとの出会いだったかもしれません。

秩父の方なんですか?

中島 はい。私が31歳、山中棟梁が35歳のときの出会いでした。お互いに何度もぶつかりましたが、山中さんと出会っていなかったら、今の「ぢろばた」はスターバックスやドトールと同じようなガラス張りの店になっていたかもしれませんね。

どんな方だったんですか?

中島 私が描いた絵コンテを持って秩父の大工を巡りましたらば、鼻毛も髭も剃らずぼさぼさ頭にタオルを巻いた職人さんが、かんな屑まみれで作業現場にうずくまっていたんです。そして私が「棟梁はいらっしゃいますか?」と声をかけたら、その方が立ち上がって「あっしが棟梁です」というので、もうこの人は無理だと思いました(笑)。よく見れば作業着は破れているし、顔も洗わないのか目ヤニのついたままだったりして、人格を疑ってしまったんですね(笑)。

それはよくわかります(笑)

中島 それで私はすぐに「失礼します!」と言って逃げたんですが、その方がものすごい速さで後を追いかけてくるんですよ。「おい、おい、若いの」なんて。それで追いつかれて「あんた何しに来たんだ」と言われたので、仕方なく「実はこういう店をつくりたいんだ」と言ったら、「あっしに任せてくれ」と。あんたの見たこの顔は見なかったことにしてくれ! 俺の本当の顔は街の中にある。妙見(寿司)やめばえ(割烹)だ。あれが俺の顔だ!

棟梁はなんで私が逃げたのか、ちゃんとわかっていたんですね。繰り返しますが、決して忘れられない出会いでした。

ヤマシタさん、ちょっと表に出てみてください。

はい。・・・隣に和菓子屋さんがありますね。そうか、ここがマスターのご実家なんですね!

中島 父は「お前が菓子屋を継ぐのは諦めたけど、せっかく珈琲店を開くのなら、菓子屋を半分、珈琲店を半分にしろ」と言ってくれました。しかし山中棟梁はこの店をつくるにあたって、私にこう問いかけてくれたんです。

あなたはお客様がひっきりなしに来る繁栄店を望むのか? それとも、お客様がポツンポツンと来て、お店の片隅で詩集など読みながら静かに珈琲を飲んでいる、そういうお店を望むのか?

私はこう答えました。「棟梁、当然後者がいい」と。

それでこういうつくりになったんですね。ぶらっと歩いていると気づかないこともあるような。

中島 当然父には大反対されましたが、山中棟梁は粘り強く父を説得してくれました。イエス・キリストの言葉を使って。

狭き門より入れ、滅びにいたる門は大く、その路は廣く、之より入る者おほし。生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出す者少なし。(マタイ7:13.14)

そう、山中棟梁はクリスチャンだったんですね。それで「ぢろばた」の店の構えは狭く小さな外観となりました。

大工としては、しては当然大きな仕事のほうが儲かるのに、不思議ですね。

中島 そうなんです。不思議ですね。しかしそれで私は大成功しました。もし父の言うことを聞いて大掛かりなお店を開いていたら、店の収入は多かったとしてもひきかえに体調を崩したりして、82歳の今まで生きてこれなかったと思うんです。人手も必要ですし、アルバイト代を払うお金がないと頭を抱えたり、銀行で頭を下げたりして、ストレスも溜まる。

つまり滅びに至る道は4車線道路でアスファルトで舗装されている。しかし生命に至る道はでこぼこだらけで曲がりくねっていて歩きにくいが成功への道筋である。さすがイエスさんはいいことを言いますね(笑)。

私を殴ったお兄ちゃんとの出会い、東京オリンピックでの出会い、この時計との出会い、そして山中棟梁との出会い。いろんな出会いが私の珈琲道(こーひーみち)を推し進めたわけですね。

余談ですが、後日私もキリスト者になりました。

「ぢろばた」について

「ぢろばた」という店名にはどういう由来があるんですか?

中島 秩父地方に伝わる民謡があるんです。「秩父音頭」です。

朝霧蹴たててよく来たね

ぢろばた(地炉端)寄ってお当たんな

という。地炉端とは、囲炉裏端のことですね。朝霧が立つ頃といえば朝5時頃ですから、「ぢろばた」は1974年の4月29日の朝5時に開店しました。

大工の棟梁
山中隆太郎さんのこと②

中島 このお店は1974年の4月29日に開店しました。前日に工事が終わり職人さんがみんな帰ったあとも、私と棟梁はここに居残ったんですが、夜の12時ちょっと前に棟梁がいなくなったんですね。あれ?と思ったら屋根裏の一角で泣いているんです。

「棟梁、なんでこんなところで泣いてるんだよ?」と聞いたら、彼は降りてきて、泣きながら私に向かって「どうかこの店を可愛がってやってくれ」と言ってくれました。

そして私が「ケンカしながらだったけど、おかげでいい珈琲店ができました」と素直にお礼を言ったら、驚いたことに彼は「まだ完成してないよ」と言うんです。

翌日朝5時に開店するのに完成していないなんて、話が違うでしょと文句を言ったところ、棟梁はこう言いました。

この店はこれから梅雨時の雨をしのぎ、真夏の灼熱の太陽に耐え、秋の木枯らしにも倒れず、真冬の雪の重さにもつぶされずに、お客様の手の脂や涙がテーブルの上にいっぱい染み込んで・・・そうやってはじめて完成するんだ。

そのときの私が32歳、棟梁が36歳。

50年以上かかりましたが、もうそろそろ、もうそろそろ、「ぢろばた」は完成しそうです。まだちょっと未完成な部分もありますが。

完成間近ですか。

中島 う〜ん・・・・・・ちょっと待ってください。やっぱりまだ難しいところですね。・・・これは結構悩ましいところです。

大工の棟梁
山中隆太郎さんの死

棟梁はまだお元気なんですか?

中島 69歳のときに亡くなりました。お気に入りの席があったのですが、亡くなる少し前はお客様がいらっしゃるにも関わらず、いつもそこに座って美空ひばりの『悲しい酒』を歌われていたんです。

珈琲屋さんで「ひとり酒場で飲む酒は〜」なんて歌っちゃダメですよね(笑)!?

中島 私が「棟梁、その歌似合わないよ。ダメだよ」と注意すると、彼はこう言いました。「俺は本当は悲しい男なんだ」と。

棟梁は秩父の夜祭で6台の山車を仕切っていたような男だったのですが、「俺は本当はあんなことをしたくない。寂しい男なんだ」と。

なんだか欺かれたような思いがしましたね。野村監督の言葉を借りるなら、私が月見草ならば彼は太陽のような男で、私はそんな彼を眩しく思うがあまり敬遠するほどでしたから。もしも棟梁のそんな本当の姿に、もっと早く出会えていたら・・・。棟梁ではなく人間としての本当の自分を見せた、悲しい、そして寂しい男、ヤマナカリュウタロウに会いたかった・・・です。

山中棟梁は、それを仰った1週間ほど後に亡くなりました。

自らが手がけたこの空間が、お亡くなりになる前にそうさせたということなんでしょうか。

中島 おっしゃる通り、山中さんは大工の棟梁という虚飾を、ここでは脱げたんですね。ご自身が手がけた作品の中でも、このお店が一番気に入っていたようです。本当の自分でいられたのでしょうか・・・。

棟梁がここにいらしていると、決まって奥様からお店に電話がかかってくるんです。「ウチの来てるでしょ?」って。私は決まってこう答えました。「先ほどお帰りになりました」と(笑)。

思う存分泣いてください

中島 この「ぢろばた」をやっていて一番嬉しいのは、珈琲を褒められるよりも、お客様が泣いてくださることです。ここでも、そこでも、あそこでも、泣いておられるお客様を随分見てきました。

もちろん私は「お客様、どうして泣いているのですか?」なんて絶対に聞きません。心の中で、「どうぞ、思いっきり泣いてください」と願います。

職場で、学校で、ご近所で、友人関係で、いろんなことがあるんでしょうね。一生懸命働いて長期ローンで買った我が家で泣けないなんて、なんという惨めな人生でしょう。

だから西武線で秩父までやってきて、「ぢろばた」の薄暗いすみっこのほうで泣く。そして泣き終わったらストレスを全部この壁に貼り付けて、また我が家に帰るんです。ただいまって。

このお店は50年前からこういう空間なんですか?

中島 皆様、時間が止まったみたいだ、故郷に来たみたいだ、と仰ってくださいますね。そして、この店だけは絶対誰にも教えたくない。ひとりで行きたいと。これはとても嬉しいです。

お客さんがたくさん来た方が嬉しくないですか?

中島 ひとりでいいですね。ひとりだとほっとしますよね。そしてひとりの時間に一番似合う飲み物が珈琲ですよね。珈琲を飲むときには、自分と向き合える。自分と会話できる。120ccの珈琲が、今までわからなかった本当の自分を教えてくれる、お手伝いをしてくれるかもしれない。私もいまだに日々、新しい自分と向き合っています。

マスターも本当の自分には出会えていませんか?

中島 自分が一番わかんないですね。でも、もしかしたら明日わかるかもしれません。私が50年前に大宮の喫茶店で大泣きしたあれはいったい、なんだったんでしょう。

珈琲に含まれているなんらかの成分が、私の脳を撹乱させて、涙腺を刺激しちゃったんでしょうかね。でも、そんな特殊な状況をまた再現してやろうなんてお前の奢りじゃないかって、もうひとりの自分は言うんです。

でも、マスターの珈琲を飲んで泣く人がいるということは、すでにこの珈琲はあの味を再現しているということでは? だってドトールやルノアールでは泣けないじゃないですか。

中島 小さな写真を持ってきてテーブルに立てかけて、珈琲を2杯注文されるお客様がたまにおられますよ。後からお連れ様が来られるのかな、と思ったら最後までお見えにならず、そのままお帰りになられます。その1杯は、今はもう決して会えない大切な方の珈琲なんでしょうね。その日はおふたりの特別な記念日だったりして・・・。

後編はこちら!

珈琲道 ぢろばた

1974年に秩父で創業した珈琲専門店。できればひとり、多くてもふたりで、静かに珈琲と向き合いたい空間だ。

定休日は木曜日。珈琲以外のメニューは一切ないのでご注意を!

住所/埼玉県秩父市東町9-14
TEL/0494-24-3377
営業時間/14時頃〜19時頃
定休日/木曜・末尾に1がつく日(1日、11日、21日、31日)

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