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愛と感謝とチーズ山盛り!
「トニーズ ピザ」の
アメリカンピザは
ケネディへの
憧れから生まれた
撮影・文/山下英介
みんなが大好きな吉祥寺の街中で、ひときわ人気を集めるレトロな店構えのピザハウス「トニーズ ピザ」。実はこのお店が創業したのは1968年。マスターの藤原亀吉さんは海外旅行が自由化される前にアメリカに渡り、本場のニューヨークスタイルのピザを学んできたというすごい人なのだ。食べれば誰もが元気になる、チーズ山盛りのピザのルーツってなんだろう? そんなことを聞きに行ったら、話はどんどん別の方向へ。美味しいものをつくれる人って、不思議と生き方もドラマチックなのだ!
反アメリカの活動家が
ケネディに憧れるまで
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いつもお若いマスターですが、お生まれは何年なんですか?
マスター 昭和13年の4月1日ですよ。
・・・ということは85歳! その若々しい姿からは想像もつきませんね!
マスター ぼくの生まれはね、神田駿河台。山の上ホテルの裏側ですよ。実家は牛込原町で下駄屋を経営していたの。地元では知らない人はいなかったね。
ああ、いわゆる下町っ子だったんですね! 偶然ですが、我々の事務所も神楽坂にあるんですよ。
マスター そうなの?いやだねえ(笑)。ぼくが子供の頃はまさに戦争中だったから、若松町でよく剣突きをやらされてましたよ。みんなで鉢巻締めて一直線に並んで、アメリカ軍が落下傘で降りてきたら竹槍で倒すんだって。都電が走っていた道は、よく天皇陛下がお通りになっていたんだけど、そのときは何時間も前から地べたに膝ついて待って、来られたら頭下げてね。
戦争の時代を体験されているんですね。
マスター そうですね。幼稚園に通っていた頃にはこのあたりもよく空襲されたんですが、空襲警報が鳴るともう幼稚園どころじゃない。みんなで壁に沿って家まで歩くんですよ。道の真ん中なんて歩けない。
あのあたりはほとんど焼けているんですよね?
マスター そうです。あの時代は地方に疎開する人が多かったんですが、ぼくの家は貧しかったから、疎開できなかったんですよ。だから神田をはじめ、東京が焼け野原になったのをモロに見ています。うちは経堂で農家をやっていた親戚の家で4年間暮らしたんですが、下高井戸の田んぼにB29が墜落して、ボロボロになった米兵が連れて行かれるのも目撃しました。
〝鬼畜米英〟のスローガンのもとに教育された子供たちが、戦争が終わるといきなりアメリカのカルチャーを一身に浴びるわけですから、とてつもない価値観の転換ですよね。
マスター 戦争が終わったらいきなりギブミーキャンディーだもんね(笑)。でも、ぼくはまだ小さかったし、農家にいたから食べられたけど、そうじゃない子供たちは、とにかく食べるものがなくて大変よ。本当にそう思った。だから戦争はね、どんな理由や理屈があったとしてもぼくは反対だよ。それでぼくは小学6年生くらいから、政治の世界に興味を持ったんです。ラジオにかじりついてずっとニュースを聞いていました。
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最初はピザじゃなくて政治に興味を持たれたわけですね!
マスター 1960年の安保闘争のとき、ぼくは第一線でやっていたんですよ。ちょうど樺美智子さんが殺された日、ぼくは警官隊に殴られる女学生たちを助けているうちに、自分のシャツが血で真っ赤に染まってしまった。日比谷公園でそれを洗って帰ろうとしていたところ、尾行してきた私服警官に捕まっちゃうんです。自分の口からはあまり詳しくは言いたくないんだけど(笑)、それで入れられちゃって、大学もクビになったんですよ。
なんと、マスターはいわゆる60年安保に関わっていたんですね。
マスター 当時はすごい反米感情を持っていて、よくアジ演説をしていましたよ。でもそんなときに、偶然朝日新聞でケネディ大統領の就任演説(1961年1月20日)を読んでしまった。感動しましたよ。自分の探していた、本当の政治家がここにいたんだって。どうしてもこの人に会いたい! そう思ったことが、アメリカに行くきっかけでしたね。
アメリカに行きたい!
その思いが周囲を動かした
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おお、ケネディ大統領に会うためにアメリカに行ったんですか!
マスター でもうちは貧乏だったから、急にアメリカに行くったって、通用しないんだ。うちのお袋は、米兵たちが残していった子供たちを世話する養育院の職員をやっていたんだけど、本当にお金がなくて、毎週お金を借り歩いていたくらいだから。ぼくはとにかくアメリカに行きたくて、本当に朝から晩までアルバイトばかりしていたよ。
でも当時は海外旅行自由化の前ですから、そもそも普通の人はアメリカに行けないですよね。
マスター そうなんですよ。だから犬養道子さん(※評論家、作家。犬養毅の孫)や小田実さん(※作家、政治活動家。1958年に渡米し『何でも見てやろう』を著す)といった渡米経験をもつ方々に会いに行って、「どうやったらなるべくお金を使わずアメリカに行けるか」を、聞きまくったんです。結局最後には、貨物船以外の手段はなかったけどね。そこで働きながら乗せてもらおうと思ったんです。
貨物船で渡米! 映画みたいな話ですね(笑)。
マスター 新日本汽船の「武庫春丸」って船でした。横浜港から出て、北海道の室蘭で鋼材を積んで、アリューシャン列島を通って、サンフランシスコ沖からロサンゼルスのロングビーチ港に到着する。その間13日。確か船賃は10万円だったかな。ぼくにとっては大金でしたよ。当時飛行機でニューヨークに行こうとすると23万からしたんですけど、そんなお金は払えなかったしね。
そもそも、パスポートはちゃんと取れたんですか?
マスター 帰りのお金がないから片道切符だったのに、どういうわけかうまく通ったんですよ。
え〜っ! 今じゃ絶対に追い返されますね。学生ビザか何かですか?
マスター ここでまた、お世話になった方々がいるんですよ。当時は金魚鉢に酸素を送るサーモスタットの工場でアルバイトをしていたんだけど、一生懸命働いていたこともあって、ぼくがアメリカに行きたがっているという話が、社長に伝わったんだろうね。この機械をアメリカに輸出する貿易会社の社長に会わせてくれたんだ。この社長さんはハーバード大学を出た中国人で、ものすごく頭の切れる方だった。「どうしてアメリカに行きたいのか話してみろ」って言われたから、ふたりの社長の前で30分は夢中で喋ったよ。そして最後に「本当にやる気があるのか?」と聞かれて、「そのつもりで生活しています」と返したら、「じゃあ、うちの社員にしてやろう」って。
うわあ、貿易会社の社員扱いということで渡米させてもらったのか・・・。今では考えられない話ですね。
マスター 社長さんはすぐに500ドルの小切手を書いて秘書に渡すと、目の前にあった銀行でおろさせて、ぼくにくれたんだ。そのとき、50人はいる従業員を前にして、こう言われましたよ。「きみがもしも悪いことをしたら、ここにいる人たちはみんな明日から食べていけなくなるんだ。きみにそれだけの覚悟はあるか?」って。・・・びっくりしたよ。それでぼくはひと息ついてから「はい」って答えて、アメリカに行けることになった。その日会っただけなんだよ? 社長さんは当時すでに60代くらいの方だったと思うけど、本当に偉い人だったなぁ。でも、ぼくがアメリカから帰国したときには、全財産が2500円しかなくて、お礼をすることもできず、そのままにしてしまったんだ。今でも本当に申し訳ないと思っている。
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本当に志のある経営者だったんだなあ。
マスター だからぼく、今日まで生きてこられたのは、人に助けられた、もう本当にそれだけなんですよ。今は独り者で親戚も家族もいないから、貯めたお金は全部次の世代に奉仕していきたいと思っています。死ぬまで働いて得たお金で、若い従業員たちをどうにかしてあげたい。外国にも行かせてあげたい。はっきり言って、ぼくにはもう自分の欲なんてないんです。いい家に住みたいとか、美味いものを食いたいとか、いいものを着たいなんて全く思わない。
マスターはお世話になった社長さんの志を継いでいるんですね!
マスター ぼくは今でも毎日政治のことばかり考えて、若い従業員や学生のお客さんたちに説いているんですよ。資源のない日本が世界に誇れるものって、美しい水と四季の移り変わりじゃないですか。他国を威嚇するのではなく、それを最大限上手に使って、この国をどうにかいい方向に導いていきたい。それがぼくの夢だったんだ。でも、今の学生たちは海外に行きたがらないし、飛び抜けてやろうという若者が少なくなったのは残念だよね。ぼくらの時代は、首相になりたいっていう気持ちを多くの若者が抱いていたよ。
思わずここでまとめたくなるくらいの素敵なお言葉をありがとうございます! ・・・マスターもやはり首相になりたかったですか?
マスター なりたかったね(笑)。それが理想でした。
60年代のアメリカで
身に着けた生きるための知恵
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それほどに大きな志を抱いてアメリカに渡ったんですね。現地では学校などに通ったんですか?
マスター いや、お金がないからそこでもひたすらアルバイトですよ。日本食レストラン、カーペットやランプの工場・・・。いたるところで働きました。そしてスミスという英国人記者の鞄持ちをしていたので、政治家の演説なんかは、彼に着いて行ってましたね。彼にも本当に助けられたなあ・・・。お金も身分も知恵もないぼくは、本当にたくさんの人に助けられて、ここまで来られたんだ。だって7万2000円しか持っていかなかったぼくが、アメリカで5年間も暮らせたんだよ? 堂々と胸を張って人前を歩いた、なんてことはとても言えない。だからぼくは今でも、人に頭を下げるのが苦じゃないんです。
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あの当時、コネひとつない日本人がアメリカで生活するのは、さぞかし大変だったでしょう。
マスター 当時はどんなビザでも3ヶ月しか滞在できなかったから、都度イミグレーション(出入国管理)に行って延長してもらうんですが、その申請は大変だったね。レターヘッドにインチキな文章を書いて(笑)、係官に提出するんだけど、彼らだって機嫌の悪いときもあるじゃない。そんな人に当たったらその日は終わり。「You are too much long time go home Japan!」なんて言われて、レターヘッドに赤ペンで書き込まれてね。世界中から来た人たちが、滞在を延長できるかどうか、不安そうな顔をして並んでいたよ。
映画で見るような光景ですね。
マスター でも、それで黙っていたら何回トライしてもダメでしょう? だからぼくは次の日新しい文章をつくり直して持って行ったら、柱の影から行列を覗いて、昨日断られた係官や恐い係官がいないところを探して、気持ちのいい係官の前に並んで申請するんだ(笑)。もうその繰り返し。ぼくはそんなことを、ロサンゼルス、サンフランシスコ、エルパソ、ニューヨーク、ボストン・・・方々でトライしましたよ。
そうか、ひとつの場所に留まらなかったんですね。
マスター そう、一箇所だとどうしても長く滞在できないんですよ。そして申請に行くときは、絶対にダブルのブレザーを着てストライプのシャツにネクタイを締める。憧れていたケネディの格好を真似してね。ラフな格好だと追い返されちゃうから。
やっぱり第一印象がものをいうんですね。
マスター それは生きていくための知恵だよね。当然追い返す方にだって知恵があるし。昨日こうやって失敗したら、今日はどうしたらいいのか? それを考えずに、同じことばかりやっていたら、何遍やってもダメですよね。
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当時は公民権運動の真っ最中だったでしょうから、日本人への差別はキツかったのでは?
マスター もうね、大変だったんだ。トイレ、バス、銀行、郵便局、電車はぜんぶブラック&ホワイトですよ。
日本人はブラックになるんですか?
マスター それが明確に決まっていなくて、どっちに行ってもジロジロ見られるんだ。まあ、生きた心地がしなかったね。当時の公民権運動は本当にすごくて、至るところで焼き討ちや暴動が起きていた。ぼくはその最前線を、親分のスミスと一緒に見て回ったんです。保守系のアメリカ人は「あれは許すべきじゃなかった」とか言うけれど、それがあったからアメリカはまとまったんだと思うけどね。
マスター自身が身の危険を感じることもあったんですか?
マスター それを語り出すと冒険談になるから、あえて言わないよ(笑)。どこに行っても危険のない場所はなかった。ただ、ニューヨークとか北部では差別を感じたことはなかったです。南部ですよ、すごいのは。ぼくは北米大陸を、モンタナ州以外全部まわりましたから。
すごい! それは仕事とか旅行ですか?
マスター まあ、ケネディの追っかけですよ。民主党の事務所に顔を出して、ケネディが何月何日にどこそこで演説をするっていう情報を聞き出すわけ。当時は党の人たちも、ぼくのような日本人とも自然に付き合ってくれたんだよね。民主党の党大会にも、なぜかパスポートを見せただけで報道陣の席に入れてもらえたりした。1964年の党大会は特にすごかったよ。ルイ・アームストロングの『Hello Dolly』がかかるなか、ジョンソンをはじめとする党の要職たちが登場して、ひな壇に次々と座っていくんです。そして民主党支持者だった俳優のカーク・ダグラスなんかが18世紀の上院議員のスタイルで登場して、スポットライトを浴びながら議論し合うんだ。それがもう、映画を観ているようにきれいでね。それが終わってからジョンソンの演説が始まるんだけど、これは見る価値がありましたよ。
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エンターテインメントとして成立しているわけですね。やっぱりマスターは、アメリカのカルチャーにも惹かれていたんですか?
マスター もう大好き大好き。何が好きって、ジャズですよ。だからニューオリンズにも5回行きました。飛行機だって5時間かかるところを、グレイハウンドバスで1日半かけてね。
アメリカの暮らしを満喫されたんですね。
マスター 当時は食うや食わずだったのに、どういうわけか、そういうところだけは楽しんでいたよね(笑)。
ちなみに、いつもばっちり決まっているマスターのヘアスタイルは、ケネディカットなんですよね?
マスター 歳をとってだいぶペタンコになったけど、当時からこの髪型。イタリア人の床屋さんにケネディの写真を見せて切ってもらっていたんだけど、ぼくが行くと「ケネディJr.が来たぞ」って言われるんだ(笑)。
政治の季節が終わり、
30歳にしてピザ職人の道へ
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そんなマスターの憧れだったケネディは、1963年の11月22日に暗殺されてしまいますが・・・。
マスター ぼくの親分だったスミスに聞いたんだけど、ケネディが暗殺されるちょっと前に、民主党の大統領候補で国連大使を務めたアドレー・スティーブンソンがダラスに行ったら、卵やトマトを投げられたり、酷い目にあったらしいんだ。だからスティーブンソンは、ケネディに「あそこに行くのはやめておけ」と忠告したんだけど、ケネディはこう言ったらしい。「アメリカの大統領が、アメリカで歩けない場所はどこにもないんだ」と。それで彼はダラスに飛んで、撃たれたんですよ。
不穏な空気が流れてはいたんですね。
マスター もう泣けた、泣けた。ぼくはケネディの葬儀に参列するためにワシントンに行きましたが、毎日泣きながら街を歩きましたよ。これからの世界は、これからの日本はどうなるんだって。その葬儀にはイギリスのチャーチル、ドイツのアデナウアー、エジプトのナセル、フランスのドゴールといった政治家たちも参列していたんですが、彼らが行進する姿を目の当たりにして、鳥肌がたちましたね。功罪は別として、彼らは20世紀最高の指導者たちだったから。そしてケネディの遺体に接したとき、もうぼくは政治から離れよう、自分の先生はいなくなったんだって思いました。・・・いや、今日はピザをつくるよりも、政治の話だけをさせてもらいたいな(笑)。ぼくはね、話したいことがいっぱいあるんだ。
このあたりの話をずっと聞いていたいんですが、そろそろピザの話もしないと夜の営業が始まっちゃいますから(笑)。そんなふうに60年代の激動するアメリカを5年間生き抜いたマスターは、1968年に帰国することになるんですよね? そのきっかけはなんだったんですか?
マスター 本当は学校に行きたかったよね。でもぼくの時給は2ドル。当時通いたかった学校の授業料は年間1380ドル。暮らしていくだけで精一杯だったよ。そうこうしているうちに、タイムオーバーかなって。見るだけ見て、覚えるだけ覚えたから日本に帰ろうと思いました。
当時の感覚で30歳っていえば、そろそろ若者とはいえない年齢ですもんね・・・。それでピザ屋さんという選択肢が生まれたわけですか?
マスター そうだね。当時の日本にはピザ屋なんてなかったから。実は「トニーズ ピザ」って店名は、もともとぼくのアパートの1階にあって、のちにアルバイトしていたお店の名前なんですよ。ピザを食べていれば栄養は摂れるから、当時のぼくは毎日ここの15セントのピザを朝ご飯がわりにしていた。それがあったから、このお店でピザの焼き方を教えてもらえたんだよ。
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でも、マスターは帰国したときは2500円しか持っていなかったんですよね? どうやってお店を開いたんですか?
マスター ・・・お袋を泣かしたんですよ。アメリカに行くときにも散々泣かせたのに、帰ってきてからも。お袋は、「隣近所の人を見てごらんよ。みんな一生懸命働いて、親や子供を養っているじゃない」って言っていた。本当にその通りなんだ。ぼくだけ30歳にもなって定職にも就かずにフラフラしている。泣かせて、泣かせて、それでもお金を借りて、高校時代の友達にも色々と助けてもらって・・・。代々木に出した最初のお店も、もとはといえば同級生のお袋がやっていたブティックの物件を安く借りたものだし、安く工事してくれた腕利きの大工さんも同級生の弟だったし、本当にみんなに助けてもらった。しかも最初の運営資金だって、ニューヨークで会った福田くんっていう友達に貸してもらったんだ。
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そうはもう、マスターの人徳ですよ!
マスター 彼は東洋レーヨンの営業課長をやっていたのかな。ちょうどアパートを探しているというから、ぼくの部屋をシェアして50ドルずつ払いながら、8ヶ月一緒に暮らしたんです。彼はいったん帰国したけど、その後もう一度ニューヨークで偶然会いました。そのとき「藤原さん、あなたはこれからどうするんだ?」って聞かれたので「日本でピザ屋でもやろうかと思って習っている」って答えたら「それはいい、お金ならぼくが貸してあげるから」って。
福田さんはお金持ちだったんですか?
マスター いや、そんなことはなかった。彼は結婚を予定していたのに、わざわざ式の日程を伸ばして、そのために貯めていたお金をぼくに貸してくれたんだ。電話をかけたら、翌日すぐにお金を持ってきてくれたよ。だからぼく、いまだに彼には盆暮れの届け物は欠かさない。彼は「もういいから」って言うけど、60年近く経ってもその恩は忘れられないよ。うちの従業員たちにも「あの人がいなかったら今日はないよ」って伝えています。実は、うちで使っているクッションはみんな福田くんの奥さんが縫ってくれたやつなんだ。彼女はぼくがお金を返して、ようやく結婚できたんです。
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そんな周囲の応援があって、このお店がつくられたんですね。
マスター ぼくなんて生まれも育ちも貧乏で、とてもまともなやり方じゃお店は出せなかったですよ。
ここは何屋なんだろう?
1960年代・東京のピザ事情
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開店してすぐに、お店は繁盛したんですか?
マスター いや、ピザ屋ったって、みんな何を売るお店かも理解していなかったですよ。まだ日本にはマクドナルドすらなかったわけだし。だってオープニングした日に、洗濯物をたくさん持ってきた人が2、3人いたんですから。
ああ、クリーニング屋さんと間違えたのか(笑)!
マスター そのくらい、代々木の街では理解されていなかった。
でも当時としてはハイカラなお店ですから、業界人なんかが押し寄せたのでは?
マスター そうだね。角川春樹さんはよく来てくれた。あとは植木等さんが特に可愛がってくれて、亡くなるまで40年にわたってお付き合いさせてもらいました。ただ、ここは予備校生の街でしょう? 若い学生たちにとっては、こういうお店が珍しくてたまらないんです。そこにアメリカ帰りのぼくがケネディの話をすると、だいたい常連になってくれる。焼き損じたピザなんかはタダで食べさせたりね(笑)。そういう彼らの評判が口から口へ伝わって、その連続で今までやってこれました。60代70代になってもいまだにうちに通ってくれる、あの頃の常連さんがたくさんいますよ。
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1968年の東京でピザを食べられるお店といえば、六本木のニコラス(現在は閉店)くらいですかね?
マスター ニコラス、ミッシェル、チルコリ、チボリ、イタリー亭。これが当時六本木から赤坂にかけて、営業していたイタリアンレストラン。そういった高級レストランと較べると、うちはもう安すぎました(笑)。一人前120円だったから。だってピザって、アメリカではラーメンみたいな食べ物なんだよ。
調べてみると、1968年のタクシー初乗り料金が130円だそうです。つまり「トニーズ ピザ」は、日本におけるカジュアルなピザ屋さんの先駆けということですね? でも、当時はきっと材料の仕入れも大変だったのでは?
マスター チーズを買うのは大変だったね。当時日本でピザに使えそうなチーズといえば、15から18種類くらいだったかな。もちろん舶来品だから横浜の業者さんまで買いに行って、15キロの塊を持って帰って、一生懸命手作業で削ってね。今もあの頃とつくり方は同じで、チーズの性格に合わせたやり方で、塊から削り出しています。これがうちで一番手間のかかる作業なんだけど、手間をかけないと本当に美味しいものはできないからね。
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ここのピザは、マスターがアルバイトしたお店の味を再現したものなんですか?
マスター アメリカと同じピザをつくってたら、当時の日本ではやっていけなかったね。これでは多分商売にならないだろうな、と思ってスタイルを変えたんです。だから今でも、日本でぼくと同じようなピザをつくっている人はいないでしょ?
確かに、「トニーズ ピザ」のピザは、いわゆるアメリカンピザともまた違いますよね。チーズの量がとんでもなく多くて、贅沢な味です。
マスター とにかく色んなチーズを試して、創業から10年ぐらいかけて、ようやくエダム、マリボー、モッツァレラの3種類に定まったわけです。当時は安くていいチーズの情報を聞けば、なんでも試してました。
人に助けられて生きた恩を
現代の若者たちに返したい!
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創業の地である代々木から吉祥寺に移転したのは、何か理由があったんですか?
マスター それは都市開発の影響ですね。1982年にお店があった場所をマンションにして、その1階をぼくたちに貸してくれるって約束で出たんですが、いっこうにお呼びがかからない。それで行ってみたら、もう次のテナントが入っているんだよ。それでぼくは1年半、裁判を頑張りました。お金もないのにね。その後吉祥寺に移転したわけですが、それまでは降りたこともない駅だったから、土地勘もないんだ。今は予備校やらお店がたくさんあるけれど、当時は全くの住宅街で、人を呼ぶのが大変でした。だからアルバイトの子たちには「今から駅前でひと踊りしてお客さん連れてきてよ」って。
〝ひと踊り〟というのは、ビラ配りのことですか?
マスター そうそう。それくらいしなきゃお客さんは来てくれなかったから。もう、情けないくらい人のお世話になってきたよ。ぼくがあんまり表に出たくないのは、そもそも偉そうなことを言えないからなんだよね。
スタッフの方にも助けられたと。
マスター うちで経理をやっているお姉さんは、もともと三菱銀行の重役のお嬢さんだったんですが、もう50年勤めてくれています。ほかにも30年、25年と勤めてくれている女性もいますよ。アルバイトの若者も多いんですが、音楽制作をやっている子、日本一の銭湯をつくりたい子、みんな大きな夢をもっている子たちばかりです。みんなのお世話にならなきゃ、1日だってこのお店はやってこれなかった。
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ひとつの飲食店で50年勤めるって、とんでもないことですよ! でも、コロナや年齢の問題とかで、辞めようという選択肢が心によぎったりしませんでしたか?
マスター それは何百回とありますよ(笑)。でも、明日からお前はどうやって食べていくんだって、自分に言い聞かせるわけ。リタイアして優雅にゴルフしている同世代を見ていると、それなりに思うところはあるけれど、置かれた立場は違うからね。
マスターは、ご趣味とかはあるんですか?
マスター 政治です。やっぱりこれだけは離れられないよね。あなたが聞いてさえくれれば、腹の底から感じてくれるようなことを、山ほど言えるよ。ぼくは長年生きてきて、つくづく日本の政治家の質の悪さに憤っている。これには保守とかリベラルとか関係なく、二世議員の多さが大きく影響していると思う。だって日本はいまだに古い義理人情で動く世界じゃない。親父やお袋が世話になった、なんて言ったら、それだけでひとつの利権やしがらみが生まれてしまう。こんな古い政治をやってたら日本はダメだよ。
おっしゃる通りだと思います。
マスター 実は、ぼくはこの年になっても、いまだに宝くじを買い続けているんですよ。もし当たってお金持ちになれたら、そのお金で日本の将来を背負って立つような政治家を、ひとりでも10人でも育てたい。日本の青年の中には、明日の豊かな社会をつくり出せるような才能があっても、お金がなくて学校に行けないような若者たちがいっぱいいるんだよ。・・・その夢は消えない。
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政治家の夢は潰えても、アメリカに渡ったときの志は、まだ失っていないんですね。そして自分が成し得なかった夢を、今の若者たちに託そうという。
マスター 今日は生い立ちから喋っちゃったもんだから、ケネディのことをあまり話せなかったのが残念だなあ。だからひとつだけ彼の言葉を覚えて帰ってよ。
私たちは今日まで苦しみ、色々と味わってきたがそれはいい。しかし、私たちの弟や妹、子供たち、そして今お腹の中にいる赤ちゃんたちのことを考えてほしい。彼らが味わう苦しみが、私たちの半分ですむような社会にしてあげようじゃないか。それが先に産まれた者の義務なのだ。
※マスター訳
こんな演説できる政治家、いまだに日本にいないでしょ? ・・・はい、ピザが焼けたから食べていって!
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ありがとうございます。今日はマスターの生き様に感動しました! 今度はぜひケネディのお話をじっくり伺いたいと思います。
マスター ほらほら、無駄話してないで、早く食べなって! ピザは熱くないと意味ないんだからさ!
す、すみません! ありがたくいただきま〜す!
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- トニーズ ピザ
テイクアウトはもちろんだが、4人前(1枚)から全国発送も行っている。詳しくは電話にてお問い合わせを。
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