「フェレンツェで
会いましょう」。
ハマっ子白井俊夫さんと
赤峰さんの50年
撮影・文/山下英介
この1月、赤峰さんと長年親交のあったメンズファッション業界の重鎮、白井俊夫さんが85歳で逝去された。とても残念でならない。江戸時代末期からの歴史を持つ横浜の洋品店・・・今でいうセレクトショップである「信濃屋」に長年勤めた彼は、進駐軍仕込みのお洒落で名を馳せ、1990年代にはクラシコイタリアブームの火付け役として活躍した人物。ある意味では横浜という港町を象徴するような存在だった。今日は赤峰さんに、そんな白井さんの在りし日の姿について伺ってきた。謹んでご冥福をお祈りいたします。
赤峰さん、本日は1月6日に惜しくも逝去された、横浜の洋品店「信濃屋」の顧問、白井俊夫さんのお話を聞かせてください。
赤峰 実は白井さんとは、昨年末に話したばかりなんだよ。年明けの1月7日に何をしているかと思って携帯に電話したところ、奥様がお出になって・・・。言葉を失いましたね。白井さんとは長い付き合いだったから、本当に寂しいよ。
白井さんとはどこで知り合われたんですか?
赤峰 ぼくは28歳のときにWAY-OUTというブランドを立ち上げたんですが、その商品を持って「信濃屋」まで営業に行ったんです。当時の「信濃屋」には望月文蔵さんという4代目社長がいらしたんですが、そこで紹介されたのが、30代だった頃の白井さんでした。歳は白井さんのほうが7つ上ですが、実は彼もぼくと同じく桑沢デザイン研究所に通っていたことがわかり、仲よくなったんです。
当時の「信濃屋」はどんな存在だったんですか?
赤峰 1階が紳士洋品店、2階が望月文蔵さんの娘である富士子さんによるオートクチュールサロンでした。このサロンはとても有名で、女優の岸惠子さんや月岡夢路さんを顧客に抱えて、とても華やかでしたよ。紳士洋品店のほうには戦争帰りの古株のスタッフたちがいて、そんな中で白井さんはアルバイトとして勤め始めて、彼らに揉まれながら成長していったんですよ。
当時のブランドにとって、「信濃屋」に買ってもらうというのは、大事なことだったんですか?
赤峰 あの頃はVANヂャケットやテイジンメンズショップが全国に出店していた時代ですが、銀座には「田屋」、渋谷には「ほまれや」といった高級紳士用品店が存在して、大人の顧客をつかんでいました。そんな中でも「信濃屋」は銀座の「サンモトヤマ」と並び、群を抜く格上のお店でしたね。そういえばあの頃の「サンモトヤマ」には、のちに「ストラスブルゴ」を創設する田島淳滋くんが働いていました。彼も数年前に亡くなりましたが、懐かしいなあ。
赤峰さんは「信濃屋」では、どんな商品を卸していたんですか?
赤峰 もともとはシャツですね。今でも「信濃屋」で扱っているタッターソールのアスコットシャツは、最初はWAY-OUTでつくっていたものだったんですよ。浅草にいた石垣さんっていう〝振り屋〟に手配してもらったんだっけな。あの頃の「信濃屋」のビジネスは特徴的で、首回り36センチから43センチまで1㎝刻みでつくるんだけど、ぜんぶ同じ数量収めるんですよ。
普通なら40センチ前後に集中させますよね。
赤峰 でも、43センチのお客さんだって何人いるかわからないからって。
王道中の王道ですね。
赤峰 そんなところから始まって、そのうちジャケットやコートなんかもつくらせてもらえるようになりました。当時の白井さんは奥様と「なまこや荘」っていうトタンで囲ったような小さなアパートに住んでいたんだけれど、ぼくがそこにフォックスあたりの生地を詰めたトランクを持って行って、4畳間で紅茶を飲みながら、ああでもない、こうでもないって深夜まで打ち合わせをして・・・。「なまこや荘」がぼくたちの商談室だったんですよ。
青春の1ページですね。
赤峰 そういえば白井さんといえば甘党で有名で、コーヒーや紅茶に砂糖を4杯も入れて飲むんだよね(笑)。
それは知ってます(笑)。「魚なんて野蛮人の食べるものですよ」なんて仰ってましたね。
赤峰 白井さんのお洒落や生活スタイルって、横浜にあった進駐軍の将校から影響を受けたものなんですよ。コードバンの靴をピカピカにして履くような彼らの流儀に憧れていたから、のちにクラシコイタリアに傾倒するようになっても、シルバノ・ラッタンジにつくらせる靴は40年代のアメリカンスタイル。ご飯よりもパンが好きだったし、音楽はカントリー&ウエスタンだし、そうした自分の流儀を生涯貫きましたよね。
確かに白井さんの装いは、〝クラシコイタリア〟といっても、まんまイタリアというより、アメリカのフィルターを通したスタイルなんですよね。強いて言えば、映画の『ゴッドファーザー』的というか。アメリカとの距離がある赤峰さんとは、また違う流儀ですよね。
赤峰 そうですね。キャラクターに関しても彼はぼくと正反対で、当たりは柔らかいけれど実は気が強い、というタイプでした。ハマっ子ですから。
確かに物言いはけっこう辛辣でしたよね(笑)。
赤峰 ただ、白井さんの販売員としての実力は最高でしたよ。言葉遣いや立ち居振る舞い、そしてファッションや文化に対しての見識・・・。そのすべてが素晴らしかった。70年代の横浜ですから、具体的には言えませんが(笑)、ときにはクセの強いお客さまもいらっしゃるのですが、そういった方々も虜にする魅力があるんですよ。ぼくにとって白井俊夫さんは、究極の販売員でした。こんなプロフェッショナルは、もう二度と出てこないでしょうね。
私は第一線を退いて、顧問になってからの白井さんしか知りませんが、「お客さんに喜んでもらえるのがこの仕事の醍醐味だ」と仰っていたことを、よく覚えています。クラシコイタリア全盛期はブリオーニやアットリーニあたりの50万円もするようなスーツを売りまくっていたわけだし、そういう時代もあったんですね。
赤峰 彼を指名するお客さんが多いから、お昼ご飯を食べる時間もなくて、いつもサンドイッチを頬張っていましたね。2階の事務所から1階に降りる間に飲み込めるからって(笑)。
でも不思議なのは、そんなふうに大活躍して、90年代にはクラシコイタリアの立役者になったような方なのに、独立して自分のお店や会社を持つ、という方向には行かなかったことなんです。
赤峰 当時は誘いも多かったと思いますが、そういう欲や野心は微塵もなかったですね。あくまで4代目社長だった望月文蔵さんの思想を継承する、という思いでやってこられた方なんです。
そのブレない生き方こそが偉大ですよね。
赤峰 そういえば白井さんは徹底的にアメリカンスタイルを愛した方ですが、実は着物の着こなしも見事だったし、古典落語にも深い造詣をお持ちだったんですよ。しかもものすごい達筆で、毎年筆書きの年賀状を送ってくださったんですが、その文面が傑作でした。「あけましておめでとう 今年もフェレンツェで会いましょう」って(笑)。もうあの字を見ることもないと思うと、とても寂しいです。見つけたら額装して飾っておこうかな。