2025.3.11.Tue
今日のおじさん語録
「人間はすこしぐらい品行は悪くてもよいが、品性は良くなければいけないよ。/小津安二郎」
『ぼくのおじさん』<br />
インタビュー
24
連載/『ぼくのおじさん』 インタビュー

トロピカル松村の
過剰な愛情
または彼はいかにして
70’sサーフ文化の
若き継承者になったのか?

撮影・文/山下英介

最近、街でもSNSでもちらほら見かける、70年代〜80年代好きの若者たち。「かっこいいじゃん!」と思って声をかけてみると、だいたい彼らはとある人物の名前を口にするんだ。トロピカル松村、と・・・! 令和7年にして西海岸ブーム期の昭和を生き続けて20年。今や海外のファッションシーンにも影響を与えるライターにしてブランドディレクターの、過剰な半生に迫った!

70’s人生の始まりは
ゼロ年代の神戸だった

トロピカル松村さんが運営する私設博物館「さんかくなみ博物館」にて取材。
今日は巷で噂のトロピカル松村さんの成り立ちから現在に至るまでを、根掘り葉掘り伺いたいと思います! そもそもご出身はどちらなんですか?

松村 神戸です。芦屋にある甲南中学、甲南高校という男子校に通っていました。大学附属のエスカレーター校なんですが、遊び惚けてたので高校を留年しちゃったりして。

芦屋ですか? もしかしてお坊ちゃんだったとか?

松村 芦屋の甲南といったら、関西圏ではトップクラスにお金持ちが通う学校でした。ぼくは育ての父親のおかげで通えていましたが、やっぱり幼稚園からの子は別次元。もちろん受験勉強は頑張りましたよ。

ここには書きませんが(笑)、いろいろ複雑な環境で育ったみたいですね。でも神戸という街は外国人も多いし、ちょっと独特なカルチャーですよね。

松村 私学とか山の手とかの思考も強い。なによりぼくの好きな70年代、神戸は他の地域からも熱視線を集めるファッションの街でしたよね。『POPEYE』や『Fine』や『JJ』の創刊当時は神戸をたくさんフィーチャーしていたし、出身地にはかなり誇りをもっています。

でも、松村さんが青春を過ごした原風景はもうちょっと後なんですよね?

松村 1988年生まれなので、青春時代は2000年代になりますね。ぼくの学生時代は『Men’s egg』とか『Free & Easy』みたいな雑誌が全盛期でした。そのあたりの雑誌がよく〝70’sサーフ〟とか〝レトロサーフ〟みたいなスタイルを推してたんですよ。それにぼくも影響されて。

ああ、そっちのカルチャーがルーツなんですね!

松村 ただ、今でいうギャル男というよりは、デニムシャツにゴローズみたいなタイプでしたね。それで古着屋さんに通うようになって、どんどん70’sサーフの世界にハマったというか、真に受けすぎちゃったというか(笑)。

このカルチャーはご両親に仕込まれたとか?

松村 いや、全然。母親はまさに世代なんですが、ぼくが70’sサーフの格好をしていても「懐かしい」とさえ思わなかったですから。神戸は須磨海岸もあるし、70’sサーファールックの聖地だったんですけどね。ぼくは高1くらいのときには、すでに切りっぱなしのデニムショーツを穿いて、髪の毛と口ひげを伸ばしてました(笑)。

高1で口ヒゲはなかなかハードコアだなあ(笑)。

松村 まだぜんぜん薄かったですけど、母は学校に呼び出されてました(笑)。そんな格好で母にサーフィンやりたい!って言い続けていたら、母のパート先にいた久保田さんというおじさんが連れて行ってくれたんです。久保田さんはまさにあの頃のサーファーで、トヨタのハイラックスサーフに乗って、「スティーヴ・ミラー・バンド」とか「ダコタ」のCDをかけて、ガラム吸って、みたいな感じの人でした。おじさんはぼくを見て「お前、なんか昔のサーファーみたいやな」と褒めてくれたんですが、同時に「でもちょっと違うな」とも言われたんです。

タイで買ったレイバンの『ウェイファーラーⅡ』にBEARのTシャツでキメている、まだ昭和の和モノにハマる以前、学生時代のトロピカル松村さん。傍から見るとかなりの完成度だが、本人は「Tシャツもオリジナルじゃないし、まだツメが甘いっす」と後悔しきり。
ちなみに、それはどんなスタイルだったんですか?

松村 古着屋で買ったVANSの『オーセンティック』を履いてました。もっと言うと4つ穴のレディースです。色は緑色だった。そしたら久保田さんは「悪くないけど、ちょっと当時と違うな」って(笑)。当時はトップサイダーだし、VANSを履くなら紺赤のツートンやと。それをどこで買えばいいのか聞いたら「ミスターボンドや」となる。そうやってどんどん、当時を知るおじさんたちに聞きながらすり合わせしてきたんです。

最高の英才教育だ(笑)。

松村 「ミスターボンド」で買ったトップサイダーを履いて久保田さんとサーフィンに行ったらまた、「ええやん。でもアイラブニューヨークっていうデッキシューズもあったな〜」「なんですか、それ!?」みたいな感じでより深まっていくんですよね(笑)。しかし久保田さん、お洒落な人だったな〜。「ダコタ」の曲を聴くと、今でも中学高校時代を思い出します。ぼくにとっての「ぼくのおじさん」は久保田さんでしたね。

でも、そんなふうに仕上がっていくと、まわりからはちょっと浮いてきますよね?

松村 タイ旅行で買ったレイバンの『ウェイファーラーⅡ』をかければ友達にタモリって言われるし、デッキシューズを履いて学校に行けば「上靴履いてる」って言われるし。でも一番悲しかったのは、ぼくが70’sサーファーになりきって三宮を歩いてたら、すれ違った女子の集団が一瞬黙って、通り過ぎてから大爆笑したことですね(笑)。

(笑)2000年代半ばにおいてはかなり異端だったかもしれないですね。

松村 そういえば昔、神戸の「バーニーズニューヨーク」の前で、まだリニューアルされる前の『POPEYE』に声をかけられて、ファッションスナップされたんです。ついにぼくのスタイルが認められたと思って嬉しかったんですけど、発売された雑誌を見たら白黒のコラムページで「神戸担当は見た!」みたいなタイトルで珍種扱いされてました(爆笑)。自分的には『Free & Easy』とかの延長線上にいたつもりだったんですけど。

シティボーイ復活以前、2011年1月号の『POPEYE』においては、〝ザ・ポパイくん〟は蔑称だった!?
でも、多感な思春期にそんな扱いされても、心が折れないってのがすごいですよね。

松村 実はぼく、高校時代は応援団の副団長で、イケイケの遊び人タイプだったから、中2から彼女が途切れたことがないんですよ。だから悔しくはないっす。ちなみにハタチくらいから結婚するまでは、ずっと20歳以上年上のリアルタイムの女性と付き合ってました・・・。いや、こんなことまで話さないでいいか~(笑)。

こちらは応援団時代の松村さん。これは確かにモテそうだ! 隣に写っているのは、柳ジョージ好きだという松村氏のお母上。


リアルタイムのディスコで生録音されたカセットテープの数々は、松村さんが歴代の〝彼女〟にもらった記念の品だったりする。ちなみに松村さんの奥様はファラ・フォーセットばりの美女だ!
それは風の噂で聞いたことがあるので、全然大丈夫です(笑)。

松村 ちなみに妻は17歳年上なんですが、結構若い方です(笑)。

その方も存じ上げております(笑)。でも、そんな異端なスタイルでもモテ続けてきたっていうのは、やっぱり人間力というか、自分に確固たるポリシーや自信があるからなんでしょうね。

松村 まだ学生時代は、ファッションも音楽も洋モノが中心でしたから(笑)。最初はアメリカの70’sサーファーを追いかけてるつもりだったのに、いつの間にかそれが日本の当時のサーフスタイルに変わってた、という感じなんですよね・・・。いつからそのスイッチが入ったんだろう? まあ、日本ではアメカジって言いますけど、そもそもリアルなアメリカの人はそんな格好していないですしね。

ネットにない知識や情報を
教えてくれたおじさんたち

ある意味日本人ならこっち方面に向かうのは必然だったと。でも、ネットがあるとはいえ、SNS時代が到来する前はそういうカルチャーを掘るのもひと苦労ですよね?

松村 「サーファーガールはサンローランのウェッジソールを履いていた」みたいな話を聞けば必死で探しましたけど、当時はタンスの肥やしのモノに価値なんてなかったし、全然見つからないんですよ。今となってはメルカリとかに山盛りあって、あのときあんなに苦労したのになって。

短パンだって70年代にあった短い丈のやつを買いたくてもどこにも売ってなかったし、デッキシューズが流行っていたと言われても、どういうものだったのかがわからない。でも探すのも楽しかったし、見つかったときは嬉しかったな〜。ボートハウスのトレーナーくらいならまだしも、クルーズや、シーズ、ウェイアウトなんかはディスコで仲良くなった当時のおじさんから譲ってもらうとかしか方法がなかったし。



サンローランのウェッジソール(左)や伝説のディスコ「キサナドゥ」のTシャツ(中央)、「スタジオ54」のディナージーンズ(右)など、70年代後半のディスコカルチャーから生まれた象徴的アイテムも多数展示。
松村さんは最後のフィジカル世代なんでしょうね。当時の神戸では、どんなお店に通ってたんですか?

松村 元町の高架下はよく行きましたね。なんて名前だったかなあ・・・そう、「ビンゴ」! 「ビンゴ」っていう古着屋さんは行きつけにしていました。あとは「ヤング衣料店」ってお店にも通ってました。名前からは想像もつかないすごいヴィンテージアメカジ店で、オーナーさんはぼくが行くたびにすごい嬉しがってくれました。「お前これ好きやろ」って、「スティーヴ・ミラー・バンド」や「ファラ・フォーセット」(笑)のTシャツなんかをくれたり、安く譲ってくれたりして。そういうおじさんたちがぼくを支えてくれたんですよ。

確かにこんな将来有望な高校生が来たら大事にしたくなりますね(笑)。

松村 当時のサーファーのおじさんたちと遊ぶと、海に行った帰りにディスコとかキャバレーに連れて行ってくれるんです。そしたらまた夜の世界も教えてもらったりして。楽しかったなあ。

上場企業の警備会社で
サラリーマン勤め!

そんな楽しい思い出の詰まった神戸には、いつまでいたんですか?

松村 実は高校を卒業した後、上野商会の「ハンティントンガレージ」っていう、行きつけにしていた地元のセレクトショップに誘われて、働かせてもらってたんですよ。

あ、アパレルの道に進んだんですね! 

松村 でも20歳くらいのときに、今度は有機野菜の専門店をオープンしました。神戸元町のトアウエストというエリアをファッション街にしたレジェンド的おじさんの森下さんという方に、「松村くんもなにか商売をやってみたら?」って勧められて。この方も「ぼくのおじさん」的存在でしたね。ブティックを営んでたベスパ乗りのサーファーで、カッコよかった。

ゆ、有機野菜ですか?

松村 退職金を使ってガレージで始めたんですけど、サーフコンセプトの有機野菜専門店でした。モニターでサーフィンの映像を流して、耐火モルタルで石窯をつくって、奈良から仕入れた野菜をデルモンテの木箱に並べて売って・・・。けっこうお洒落でしたよ。麻のTシャツとかソックスも扱っていました。

ちょっと今っぽくて、いい感じじゃないですか!

松村 相当早かったと思いますよ。森下さんの知恵のおかげですが。でも、こんなことカッコ悪いからあまり言いたくないんですけど、商売がうまくいかなかったんですよ。そしたら森下さんが「お前は社会人経験が足りんから、一回どこかでサラリーマンやってみたら?」って言うもので、大手警備会社の面接を受けたんです。

今度はサラリーマンですか!

松村 最初は警備員のつもりだったんですが、「お前おもろいから営業やれ」ってことですぐに営業にまわされて。

すごい! それって企業に営業をかけるような仕事ですか?

松村 いや、めっちゃ個人宅も行きますよ。朝から個人宅のピンポン押して話を聞いてもらったら、次は隣の家に行って、もう入ってると言われたら、「いつもありがとうございます! ところで何かご不満なことないですか?」・・・みたいな感じで1日100枚名刺を配り続けてたら、運よく全国最優秀新人賞をとりました(笑)。

20代前半にして、めちゃくちゃ濃厚な人生経験じゃないですか! でも今の仕事からはだいぶ遠ざかってますね(笑)。

松村 とはいえプライベートでは、80年代初頭にトッププロサーファーだった池田光孝さんや、ケントさんというレジェンドDJの丁稚奉公をさせていただいてたので、サーフ&ディスコシーンのあらゆる人に存在を知ってもらえてました。それから東京に来たのは22歳の頃。『Blue.』っていうサーフィン雑誌に大量に写真を送りつけて、「ぼくのことを取材してくれ」って売り込みをかけたんです。そしたら取材するにあたってモノをいっぱい持ってきてほしいって言うものだから、クルマに全部詰め込んで、神戸から東京にあるネコパブリッシング(出版社)まで行って。なんと、〝ヴィンテージサーフマニア〟みたいな扱いで、7ページも特集してくれたんですよ。すごいでしょ?

雑誌に載ることよりも、その過剰なエネルギーがすごいです(笑)。

松村 今度は阪急メンズ館から連絡があって、父の日フェアで『POPEYE』展をやるから、ぼくの洋服を貸してくれないかって頼まれました。そのときはちゃんとぼくのクレジットも入れてもらって、1階から4階までのショーケースに、ぼくの70年代コレクションが並びましたよ。それってある意味では個展みたいなものだから、これでいけるかもしれないって思ったんです。

そこからメディアに興味を持ったと。

松村 そうなんです。『Blue.』の編集者さんに相談したらライターの仕事をもらえたんですが、やっぱりさすがに神戸からの通いでは大変ですよね。そしたら「ホーリースモーク」っていう横浜のサーフショップが、「うちで働きながらやれば?」って言ってくれたので、すぐに横浜の荏田(えだ)に引っ越したんです。

そこからライター「トロピカル松村」がデビューしたわけですか。

松村 それは『Blue.』に初めて出たときから名乗ってるんですけどね。編集長に「キャラの割に本名が面白くない」って言われて(笑)。サーフィンの文化って、テッド阿出川とかドジ井坂とかデビル西岡とか、セカンドネームがよくあるんですよ。それで大好きなトロピカルブームの時代にあやかって、トロピカル松村と名乗り始めました。



テッド阿出川こと阿出川輝雄さんは、日本のサーフシーンを切り拓いたレジェンド的存在。1960年代にアメリカ西海岸でサーフィンと出会い、サーフショップ「TED’S」をオープン。『POPEYE』などの雑誌を通して、その魅力を若者たちに啓蒙した。
昔はライターもセカンドネームを持つのが普通でしたよね。今はあんまりいないから新鮮ですよ!

松村 のちに知ったクリス松村さんは他人に思えなかったです(笑)。実はクリスさんは、数年前に『BRUTUS』で取材させてもらったこともあるんですよ。クリスさん、ぼくのことを見た瞬間に「何あなた、70年代のケン田村みたいね」って言ってきたんです!

それ、普通の人は絶対わからないですよ(笑)。

松村 「ケン田村」といえば、70年代のサーファーが大好きだった日系アメリカ人のミュージシャンじゃないですか! その瞬間からぼくはクリスさんのことが大好きになりました(笑)。さすがよく知ってるわ〜って。『わすれておしまい』って曲は、関西サーファーがディスコのチークタイムで一番かけてほしい曲だったんですよ。

日本でサーフィン文化が花開いた1970年代後半〜80年代前半、巷には玉石混合のサーフフィンサウンドが溢れていた。松村さんはいわば時代の徒花とも言えるこれらを丹念に蒐集し、書籍『MY NIPPON SURFING SOUNDS』(銀河出版)にまとめている!
1976年生まれの編集人でも、このコレクションに出てる人は、高中正義となぎら健一しか知らないです(笑)。

松村 それで十分です(笑)。実はぼく、70年代後半〜80年代前半までの日本のサーフィンサウンドだけを集めた『MY NIPPON SURFING SOUNDS』という本を出しているので、ぜひ読んでください。

す、すげえ濃厚な本だ(笑)。

70’sカルチャーと
SNSの複雑な関係

松村 それで話を戻すと(笑)、ライターを経て『Blue.』の編集部員になったんですが、25歳くらいの頃に、『BRUTUS』の古着特集でまたも大きく取り上げてもらったんです。しかも芸能人を抑えて巻頭トップページですよ! 『BRUTUS』、やっぱりすごいですよね。ほぼ無名のぼくなんかにフォーカスするんですから。「これで俺、人生変わるかもしれない」って思ったし、また会社をやめてフリーになるきっかけにもなりました。でも実際、今の世の中だとそんなに甘くなかったんですけど(笑)。

『BRUTUS』に限った話じゃなくて、雑誌の影響力そのものが昔とはちょっと違っていますよね。

松村 SNSやTikTokの時代ですからね。手を挙げたもん勝ち。ぼくの周りにいる才能ある若いミュージシャンの状況なんかを見ても思うんですが、本物がなかなか見つけてもらえないというか、本当にカッコいい人こそ見つかりにくい時代なのかな、とは思っています。

TikTokやYouTubeを積極的にやってないと引っかからないというか、見つけてもらえないという現実はありますよね。

松村 ぼくなんて70年代のカルチャーを生きてるのにInstagramのフォロワーを追いかけてるのが嫌になっちゃって、2018年くらいに伸びてたアカウントを消しちゃったんですよ。周りからは散々もったいないと言われたんですけど。そのときは「こんな時代すぐに終わるだろう」と思ってたけど、終わらなかったっすね(苦笑)。だから今も個人アカウントは持ってないんです・・・。

でも、最近はちょっと時代が追いついてきた感じもあるじゃないですか!

松村 シティポップとか昭和が流行り始めた頃に、業界のおじさんから「ようやくお前の時代来たやんけ」って言われていて、ぼくもちょっと浮かれて「来たかもしれませんね〜」なんて言ってたんですが、無視されてますね(笑)。何年か前くらいから、急に周りのそれまで興味なかった人たちが竹内まりやのレコードとかを買いだしてたし、ちょっと市民権を得た感覚はあったんですけど。

本当にそうですよね。そういう状況は松村さん的には嬉しかったりするんですか?

松村 誰もいなかったのが楽しかったのに、なぜ急にみんな昭和を求めだしたんだろうと複雑な気持ちでした。ただ、ぼくは70年代のサーファーの生き方をそのまま踏襲していた若者だったので、音楽といえば「イーグルス」、「ドゥービー・ブラザーズ」、「ボズ・スキャッグス」、「ネット・ドヒニー」と、ウエストコーストからAORに流れつつ、和モノもちょっと聞く、みたいな一番ピュアな音楽の聴き方をしていたわけですよ。追いかけている時代は同じでも、聴き方が違うから、そういう人たちとぼくは交わらなかった(笑)。シティポップブームのときに日本のサーフィンサウンドを掘ったりもしていましたが、ほとんどが超格安でしたよ。

シティポップに関しては定義の曖昧さこそが違和感の理由でもあるし、流行った理由でもあるんでしょうね。

松村 ぼくら編集者は定義したい人種ですからね(笑)。シティポップもヘビーデューティも、〝総称〟ができたから流行ったわけだし、すごく大事だということはわかります。これから自分が出そうとしているファッションの本でもどう総称するかずっと悩んでますから。そしてそのカテゴリに、この服は含めても良いものなのか?とか。

そこらじゅうにお叱り案件が潜んでそうですもんね(笑)。松村さんは、当時を知るおじさんたちから「これはちょっと違うんじゃねえか?」みたいなお叱りを受けることはあるんですか?

松村 正直いってそのフェイズはとっくに超えてます。

そ、そうですか(笑)!

松村 昔はめちゃくちゃ言われてましたけどね。特にディスコなんかだと、ライトニングボルトのTシャツ着て行ったら「これ復刻ちゃうん?」なんていうおじさんがいっぱいいたんですよ。「ファーラーのパンツにアディダスのタバコは合わせねえだろ」とか。

そんな面倒くさいマウンティングが(笑)!

松村 あと、オレンジのセイコーダイバーを着けて行くと、「ベルトはナイロンのバリバリのやつにせなあかんよ」とかね。そんなマウンティングを経て、経て、経て、経て・・・ようやくディスコでは「お前ヤバいな」に変わってくるんですよ! でも最近はいたって平和で、ぼくから見ると違和感満載なYouTuberとかでも「ええやんけ」になってるから、時代は優しくなりました(笑)。

確かに、今は初心者にも優しいですよね。

タイで話題の
ディナージーンズ
「CRT」って?

それほどInstagramやYouTubeで熱心に発信しているわけでもない松村さんの活動が、最近国内外で話題になっているのって、なにがきっかけなんですかね?

松村 それはぼくが始めたブランドが大きいんじゃないですかね。それプラス、お仕事を頂いている『POPEYE』や『BRUTUS』の影響なんかもあるんだと思います。ぼくの活動を通して、面白い人やコトってYouTubeみたいな目立った場所だけにいるんじゃないんだよ、ということを伝えられたらいいですよね。

〝1970年代後半〜80年代前半のディナージーンズ〟に着目して生まれたブランド「CRT Jeans&Sports」は国内外で絶好調みたいですが、どういう経緯で立ち上げたんですか?
CRT Jeans&Sportsのイメージソースは、いわゆる〝ディナージーンズ〟。「ディナーにも行けるようなジーンズ」を意味するそれらは、1970年代後半に誕生し、「ボール」や「カルバンクライン」などのブランドがこぞってリリース。当時のサーファーたちから支持されたという。

松村 KUROというデニムブランドのデザイナー、八橋佑輔さんと仲良くなって、ぼくが持っている珍しいジーンズをお貸しするようになったんですよ。正直言って、最初はネタ元にされて終わりなのかな?なんて思いもあったんですが(笑)、八橋さんはとても素敵な方で、これは「松村くんのブランドとしてやったほうがいいんじゃないか?」と誘ってくれたんです。

CRTはプロダクトもさることながら、当時の雑誌広告のテイストをオマージュしたビジュアルも最高ですよね! キャッチコピーひとつ、フラッシャーひとつまでめちゃくちゃ解像度高いというか。
往年の『POPEYE』や『BRUTUS』を知る方なら誰もが唸る、CRT Jeans&Sportsのビジュアル。キャッチコピーも松村さん作だ。もちろんジーンズとしてのこだわりも満載だから、ぜひチェックしてもらいたい。

松村 あれはただ過去のものを再現しているわけじゃなくて、昔の広告の自由度の高さに憧れて、うちの商品をもっとよく見せられるものを考えていったら、これしかなかったという。でも結局、人間って自分が見てきたものしかアウトプットできないもんですよね。デザイナーさんや、写真家の深水敬介さんのおかげです。

お客さんはどういう世代が多いんですか?

松村 やっぱり同世代が多いんですが、タイは若い子が多いですね。

タイで人気という噂は聞きました!

松村 「Club Luminaries(クラブ ルミナリーズ)」というセレクトショップが扱ってくれているんですよ。ユナイテッドアローズのバイヤーさんがSNSに上げた投稿を見て、彼らが日本まで飛んで来てくれて。タイが面白いのは、意外とアメリカに興味がないことなんです。ぼくらがアメリカやイギリスを見ているみたいに、日本を見てくれている。

夜遊び好きなバンコクのシティボーイたちが集うセレクトショップ、「Club Luminaries」でのポップアップストアの模様。「ジャパニーズ アメリカーナスタイル」をインスピレーションの源にしたそのスタイルは、かなりハイセンスだ! 住所/110/10 Soi Ari Samphan 5, Samsennai, Phayathai
アメカジが強いという話を聞いていたから、意外ですね。

松村 アメリカというより、アメカジを追いかけているんです。それってつまり、日本を追いかけているのと同じなんですよね。だから現地の人に「アメリカのファッションに憧れた日本人のスタイルを表現している」ってブランドコンセプトを説明したら、すごい理解してもらえました。「ぼくらも日本人のそういうファッションの雰囲気が好きなんだ」って。だからアメリカ人がブランドを持ち込んでも意外と売れないらしいですよ。

それは面白いですね。アイビーの文脈はあるんですか?

松村 ぼくの知る限り、あまりないですね。タイはもっと夜の街で、ディスコティックな感覚なんですよ。アイビーやトラッドは韓国のほうが強いと思います。タイの若者はみんなお洒落だから、ぼくももっとキメて行かなきゃって感じですね。

松村さんが好きな70年代の空気感って、ちゃんと伝わるんですか?

松村 かなり伝わってますよ。クラブとかディスコカルチャーがみんな好きなので、シティポップも受け入れられているんですよね。その反面、サーフィンとかスポーツはあまり盛んじゃないみたいです。だって朝街を歩いても、走ってる人が全然いないんですよ。

都市部は空気もちょっと悪そうですもんね(笑)。

松村 ぼくが出張に行ってたバンコクエリアはのんびりできる公園も少ないし、5車線くらいでクルマがバンバン走ってますしね。だから西海岸スタイルやウェルネスが普及するような国じゃないのかなって。向こうの刺激が強い食べ物も苦手で、ぼくはタイに行くときはもっぱらスタバとCoCo壱です(笑)。

SNSで文化を
消費されないために

でもものすごくジーンズが売れたって聞きましたよ!

松村 そうなんですけど、去年流行って今年はいらないっていうブランドにはなりたくないので、細々でいいんですよ。ぼくとしては、うちのジーンズを単なるファッションじゃなくて、お店の顔になるようなアイテムに育ててほしいんですよね。売れそうなモノだけをつまむんじゃなくて、「ウチはこの世界観でやります」ってモノを集めたお店のほうが面白いじゃないですか。

その点で言うと、「Club Luminaries」はシティポップ的な世界観に徹しているのがいい。ぼくが勤めていた「ホーリースモーク」というサーフショップも、70’sカリフォルニアスタイルを貫いていて、バイイングされるボードやウェアはすべてそのコンセプトのもと展開されていたんです。そういうことをちゃんと続けていると、やっぱりお客様も同じような世界観に育ってくるんですよね。

確かにそうですね。今東京都心でそれをできているのって、古着屋さんくらいかもしれないな〜。

松村 古着は世界観を出しやすいアイテムなんですよ。でも今やYouTuberや芸人さんまで古着をコンテンツにする時代になったし、もういいんちゃうかって。だからこんなに70年代の古着を集めているぼくが言うのも変な話ですけど、今はファーストハンドのほうが面白いと思ったりしています。

松村さんが古着屋さんをやらなかったのが、意外にも思えますよね。

松村 ぼく、消費文化が苦手なんですよ。古着にしてもレコードにしても、ある意味では日本の財産じゃないですか。それがブームとして簡単に消費されて、海外に流出し続けていることがもったいなく思えてしまう。日本に集まっている面白い文化や面白いモノを、もっと大切にしたいんです。だから着たり使ったりしたかったら貸してあげるよ!って。

松村さんが昨年9月に私設ミュージアム「さんかくなみ博物館」をつくったのも、そうした活動の一環なんですかね。
こちらが川崎市高津区にある「さんかくなみ博物館」の全景。サーフィン、スキー、アイビー、ディスコ、フリスビーといった昭和50〜60年代のポップカルチャーやアクティビティにまつわるあれこれが網羅されている。ネットでも探せない知識と情報がここにある!
日本最古のサーフボードメーカーの「ダックス」をはじめ、サーファー垂涎のミュージアムクラスのボードを多数展示。ちなみに「ダックス」創業者の高橋太郎さんの義兄は「ゴローズ」の高橋吾郎さんだ。


本格的なサーフボードのみならず、当時の雑誌やレコードなどのB級アイテムも所蔵。当時のリアルなカルチャーを知ることができる。


サーフシーンとアイビー、すなわち「VANとの関わりにも詳しい松村さんは「初期のサーファーはこういう格好(左写真)だったんですよ」と語る。右写真はVANが1971年に展開したキャンペーンのレコード。「ぼくのおじさん」でもおなじみの麻田浩さんのサインが!
今ではあまり知られていないが、JUNは60年代にはサーフィン、70年代にはディスコのイベントやTV番組のスポンサーとして、シーンを支えた存在。「〝ソウルトレイン〟のTシャツは当時爆発的にヒットしたそうです」(松村)

松村 そうですね。使命感みたいなものはあるかもしれません。自分がそうだったように、次はぼくが誰かにとっての「ぼくのおじさん」になって、新しい世代のクラシック好きに、本物を見せたり教えてあげたりしたい。それで自分なりに探してほしい。こういうものを見るために面白い人が来てくれたら、編集者としての新しいアイデアに繋がったりもしますしね。

松村さんが追求しているカルチャーって、今の時代でもネットに載っていないことばかりだから、貴重ですよね。

松村 そうだと思いますよ。同じ時代でも当時はコミュニティや地域によって全く違う流行があったから、まだわからないことも多いんです。最近、とある人から「当時のサーファーの間でモンキーパンツってのが流行ってた」なんて聞いたんですけど、東京のおじさんに聞いても知らなくて、横浜のおじさんに尋ねてみたら彼らは知ってた、みたいなことがありましたから(笑)。



雑誌『POPEYE』が広めたカリフォルニアカルチャーのひとつ、フリスビーについての資料や蔵書も多数。なんと小林泰彦さんも一枚噛んでいたとか! 「ちなみにフリスビーという名前は『ワムオー』という会社が商標を取っているので、本来なら他社はフライングディスクと言わなくちゃいけません」(松村)


現在45RPMのデザイナーを務める井上保美さんが、それ以前に関わっていたDO! FAMILYにも注目する松村さん。「伝説的デザインスタジオ『WORK SHOP MU !!』のアートワークもさることながら、当時の井上さんは驚くくらい可愛いです(笑)」

とっておきのネタは
リアルな場所にしかない

ライターであり編集者であり、ブランドディレクターでもある松村さんは、今後の活動というか展望について、どのように考えているんですか?

松村 自分でこんなことを言うのも変ですけど、ぼくは生涯編集者というタイプではないと思っているんです。原稿書くのも苦手だし(笑)。『POPEYE』を創刊した木滑良久さんが、「編集者だけでずっとやっていこうと思うな」みたいなことをどこかに書かれていて、それがすごく印象に残っているんですよ。つまり編集者っていろんなことを知って、いろんな人と繋がることができる仕事だから、それを使って将来なにをするのか考えておきなさい、という内容だったんですが、ぼくってこっちのタイプだなって思ったんです。

昔の『POPEYE』でいうと山本コテツさんタイプだ(笑)。

松村 本当にそうですね。編集の仕事においても、多くの先輩おじさんたちがぼくを導いてくれている(笑)。

でも、そういう松村さんみたいなキャラクターを生かしていることが、媒体に元気や活力があるってことの証明だと思います!

松村 だからこそ、ぼくはSNSでほとんど何も見せないんですよ。ぼくやその媒体に会いに来た人だけが得られる情報をたくさん持っておきたい。

とっておきの情報を雑誌のためにキープしてくれてるんだ! それは編集者としては嬉しいなあ。

松村 雑誌みたいなメディアって、自分で自分をアピールするSNSと違って、誰かが誰かをリコメンドすることによって、初めて世にでるものじゃないですか。そこには今でも大きな差があるし、価値があると思うんです。

それは確かに! 

松村 実はぼく、過去を生きすぎたせいか、魂を吸い取られているのかはわかりませんが、自分がリアルタイム世代と同じ60代なんじゃないかって、本気で思うときがあるんです(笑)。人間誰でもそうですが、もしかしたら自分が来年生きてるかもわからない。だとしたらSNSのフォロワーを稼ぐのに時間を使うよりも、少しでも自分が生きた証を、なにかほかの形で残したいんですよね。

さんかくなみ博物館

トロピカル松村さんが運営する「さんかくなみ博物館」の営業日時は、Instagramをチェック。DMで予約もできるよ。
住所/神奈川県川崎市高津区二子1丁目5−31(二子新地駅から徒歩5分)

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