2024.11.21.Thu
今日のおじさん語録
「世界はあなたのためにはない。/花森安治」
『ぼくのおじさん』<br />
インタビュー
連載/『ぼくのおじさん』 インタビュー

〈光石研と新谷学〉
どうしてぼくたちは
アメトラに惹かれ続けるのか?

写真/古江優生
スタイリスト/土屋大樹
ヘアメイク(光石さん)/廣瀬瑠美

光石研と新谷学。先に公開された『お洒落考現学』を読んだ方なら、ふたりのおじさんのアメトラ愛は十分ご理解いただけたかと思うが、セッションはまだまだ終わらない! こちらではファッションへの目覚めから現在の趣味にいたるまで、ひたすら細かいところを心ゆくまで語り合っていただいた。ウワサによるとこのふたり、すっかり意気投合したんだとか。一生好きなファッションを貫くって、なんて素敵で楽しいんだろう! 

光石さんは
トラッド好きの〝神〟!

新谷 すごくないですか?これ。ブルックス ブラザーズの幻のスーツって言われていて。

光石 うわ、すごい。カシミアですか?

新谷 実はテーラー&ロッジのスーパー200’sというとんでもない生地なんです。オールハンドメイドで、15年くらい前の発売当時は50万円くらいしたんですけど、全然売れなくて(笑)、セールで手に入れたんです。

光石 ブルックスはなんだかんだ言って、長く着られるからいいですよね。

新谷 同じものをまた買えるし。

光石 サイズもいっぱいあるし。

ご歓談中、失礼致します。先程のアメトラ対決を経て、もうすっかり暖まってますね(笑)。今日現場でお手伝いしてもらった若手スタイリストの土屋大樹くんも、お二方のスタイルに感銘を受けていました。

土屋 ぼくも以前シップスで働いていたので、光石さんのスタイルは大好きですし、新谷さんのウワサは耳にしていました。でもぼくが同じ格好をしても、まだこうはならないんですよね。

光石 シップスといえば、ぼくらの世代にとってはミウラ&サンズ(※1)ですね。

新谷 渋谷のエッチなお店がたくさんあるところを通り抜けて行くんですよね。

光石 台湾料理の「麗郷」をちょっと入ったところね。

新谷 あの頃の渋谷はすごかったなあ。

フォトグラファーの古江くんはどうでしたか?

古江 ぼくらの世代ってあまりファッションアイコンがいないのですが、光石さんは〝神〟です(笑)。

光石 いやいや(笑)、ぼくなんて。若い人は自由でいいですよね。

新谷 古江さんは26歳か。やりたい放題の時代ですね。

いや、お二方こそやりたい放題の時代を生きてこられたじゃないですか(笑)。でもふたりは4つ歳が離れているわけですが(新谷さんが1964年、光石さんが1960年生まれ)、ファッションの原風景はかなり近いようですね。
※1/三浦義哲さんが1975年に渋谷の道玄坂裏手にオープンさせた、シップスの前身となるセレクトショップ。もともとは1952年にアメ横で創業した「三浦商店」がルーツとなっている。

八王子のヤンキー、
アイビーに目覚める!

光石 新谷さんはいつ頃服好きになったんですか? 中学生とか?

新谷 いやいや、私は八王子市出身で、完全なツッパリカルチャーだったんです。今でいう『今日から俺は!』の世界。中学生で格好つけるといったら、スケスケのトロイ(※1)のカーディガンですよ。

光石 それに白いハイネックで(笑)。

新谷 そうそう。ラコステを買うお金がないから、ワニの向きが反対のクロコダイル(※2)を買ったり。

光石 あれ、ワニが長いんですよね。

新谷 で、ボンタン(※3)に靴のかかとをつぶして。そういうノリが、高校に入ったくらいでボートハウスのトレーナーに出合ってガーンとくるわけです。それが1980年くらい。

光石 ありましたありました、ロゴトレーナー。ビームス、シップス、ボートハウス・・・。

新谷 それにクルーズ(※4)

光石 あれはちょっと敷居が高いんですよ。お店も二階にあって。

新谷 私、高校2年生の修学旅行の写真は、クルーズのトレーナー着てるんですよ。

光石 すごいな〜。ぼくもシップスのトレーナーは持ってましたけど。

新谷 『ポパイ』と『メンズクラブ』はもう定番です。私はその後、大学に入ってからブルックス ブラザーズでアルバイトを始めるのですが、その頃メンズクラブでくろすとしゆき(※5)さんがやっていた「街のアイビーリーガース」に出たんですよ!

光石 うわ〜! 「街アイ!」 それは見たい! どこのですか?

新谷 新宿伊勢丹屋上集合です。写真ありますよ。緑のカバンを持っているのが私です。

光石 うわ、かわいい〜! 

新谷 ブルックス ブラザーズのクレイジーストライプのシャツを買ったばかりで、すごく気に入っていました。真ん中にいるのは、今もブルックスのアンバサダーをやっている大平くん(※6)ですよ。

光石 本当だ。面影がありますね。しかし新谷さん、このバッグはコスビーでしょ?

新谷 そう。GERRY COSBY(※7)ね。N.Y.のアイスホッケー選手が使ってたんですよね。

光石 ぼくも「街アイ」は夢だったけれど、なかなか天神(福岡県)には来なかったんだよな〜。

※1/パイプのマークで知られる西海岸ブランド。1970〜80年代にかけて、ゴルフウエアとして絶大な人気を誇るとともに、ヤンキーにも支持された。お父さんのクローゼットを探してみよう!
※2/1960年代に香港で生まれたブランド。日本のアパレルメーカーが商標を買い取り、1970年代からは野球選手御用達ブランドとして大ヒット。〝本家〟とは世界中で訴訟を繰り返していた。現在でも根強い人気を誇っている。
※3/ワタリ幅の広いテーパードシルエットの変形学生ズボン。いわゆる外部メーカーがつくっており、全盛期は数百種類のバリエーションが存在し、ひとつひとつに『ジョニー』などの名前が付けられていた。
※4/表参道にあったトラッド系ブランド。ヨットのロゴがアイコン。
※5/日本のアイビー文化における最重要人物のひとり。『メンズクラブ』でスナップ連載「街のアイビーリーガース」をヒットさせる。
※6/ブルックス ブラザーズを代表する名物スタッフとして長年勤務し、現在は日本唯一のブランドアンバサダーを務める大平洋一さん。新谷さんとはアルバイト仲間だった。
※7/N.Y.のアイスホッケー選手が始めたスポーツブランド。日本では1980年代後半にABCマートと独占契約を結び、アメ横界隈で大ブレイクを果たす。

北九州のアイビー少年、
ダイエーでボタンダウンを買う

新谷 光石さんは1960年生まれというと、『MADE IN U.S.A CATALOG』(※1)直撃世代なんですか? 

光石 そうですね。ただあれは1300円だったから、中学生には高くて買えなかったです。なので目覚めは『メンクラ』。当時通っていた塾のお兄ちゃんが、多分ニセモノだと思いますが、G-1っていう襟にボアのついた革ジャンを着ていたんです。それで「お兄ちゃん、格好いいね」って褒めたら、「お前もこういうので勉強しなきゃダメだぞ」って、『メンクラ』をくれて。それが1975年だったんですが、ちょうどアイビーリーガーの特集号だったんですよ。それを見て、格好いいなって思って。その半年後くらいに『ポパイ』が創刊されるわけです。

新谷 リアルタイムですね。やっぱり衝撃を受けたんですか。

光石 ものすごく影響されましたね。街中でスケボーを探し回ったりして。でもぼくの住んでいる北九州市の黒崎ではなかなか見つからなくて、何ヶ月か後にようやく町のスポーツ店でニセモノを見つけるんですが、それでも高かったから、お小遣いを貯めて、親に借金までしてようやく手に入れたんです。あの頃は本当にお小遣いが少なかったから、ダイエーで安いボタンダウンシャツを買ったり、似たようなものをいつも探していましたね。

新谷 じゃあメンクラ特約店(※2)にも行けずに。
光石 地元にはメンズショップ黒猫屋というのがあったんですが(笑)、そこにも入れなかったです。

※1/1975年に出版された、日本におけるカタログ雑誌の元祖。石川次郎氏や松山猛さんが編集を手がけ、『ポパイ』のルーツになった一冊だが、実は諸事情により、平凡出版(現在のマガジンハウス)ではなく、読売新聞社から出版されている。
※2/雑誌『メンズクラブ』と提携を結び、VANなどのトラッドブランドを扱うとともに、同誌も販売していたメンズショップ。1980年代前半までは、あらゆる地方都市に存在した! 

アメトラ愛好家にとって
古着はアリか?ナシか?

1970年代後半は、まだアメトラは敷居が高かったんですね。

光石 そうですね。1979年にブルックス ブラザーズが初めて表参道に出店したのですが、当時は入れなかったですよ。テイジンメンズショップですら、田舎もんとしてはちょっと難しい(笑)。

新谷 店員さんに言われるがままに買っちゃいますよね。

光石 そう。だから昔のショップ店員は怖かったですよ。

新谷 レッドウッド(※1)、プロペラ、バックドロップ・・・。中でもバックドロップの中曽根信一さん(※2)は、有無を言わせぬ迫力があった。

光石 そうそう(笑)。ぼくは1980年に上京したのですが、好きな洋服を買えるようになるのは、それからですよ。千歳船橋の家賃2万1000 円の学生下宿に住んで、大学に通いながらすぐにこの仕事をやり始めたので、バイトするよりもちょっといいお金がもらえたんです。まあ大学は全然行かなくて、途中でやめるんですが(笑)。ブルックス ブラザーズもオープンしたし、ニューウェーブやフィフティーズ、サーフィン、ディスコ・・・。そういうムーブメントがところどころで起こっていた、面白い時代でしたね。

シティボーイ生活を満喫されるんですね。

光石 はい。シップスに行って、バックドロップに行って、オープンしたばかりの古着屋のデプト(※3)・・・。新品にはなかなか手が出なかったから、古着は本当によく買いました。

1980年頃が、日本における古着カルチャーの走りでしたよね。当時から〝ヴィンテージ〟という概念はあったんですか?

光石 いや、あくまでも〝古着〟でしたね。安いのが前提。

新谷 あ〜。実は私は古着は昔からダメだったんですよ。デッドストックはいいんですけど。「これって俺の物語じゃないんだよな」って思っちゃうタイプなんで。自分で物語をつくりたいんだよな〜。

光石 なるほど! 確かにそういう考え方もありますね(笑)。

新谷 あくまで自分の好みなので、申し訳ない(笑)。だからほとんど買ったことがないですね。

※1/1979年に渋谷で創業し、グループ店のナムスビーなども合わせ、1980年代に一大勢力を築いたアメカジショップ。ネペンテスのオーナーである清水慶三さんも、エンジニアドガーメンツの鈴木大器さんも、こちらの店長を務めていた。当時のアメカジショップとしては比較的優しい接客で、初心者にも支持されていた。
※2/今はなき伝説のアメカジショップ、バックドロップを経て、1988年にラブラドール レトリーバーを立ち上げた、業界のレジェンド。バックドロップはお客にもスタイリストにも容赦ないスタイルで知られており、店員さんにはヘタに質問もできなかった(編集人の主観です)。
※3/1981年に、明治通り沿いのビルの地下にオープンした大箱の古着ショップ。希少価値にとらわれず、カルチャーとしての古着を発信した名店。

80’Sアメトラには
ユニフォーム文化があった!

古着に対してのスタンスは、同じようなファッションを愛してきたふたりの、大きな違いと言えますね。そして新谷さんが本家本流のアメカジブランドを何十年でも着続けるのに対して、光石さんはエンジニアド ガーメンツやヤエカといった、新しいブランドも取り入れている。これも興味深いところです。

光石 ああ、確かにあるかもしれない。スタイルは変わらないのですが、いつも着ている紺のセーターが、ちょっとずつ変わり続けるという。

新谷 特にエンジニアド ガーメンツがお好きなんですよね。

光石 ぼくと一番同じようなものを見続けてきたデザイナーが、エンジニアド ガーメンツの鈴木大器さん(※1)だと思うんです。

新谷 彼はもともとレッドウッド出身ですもんね。私もあそこでは軍パンとか、よく買ったな。それもカットオフして今でも穿いているんですが(笑)。

光石 ぼくの場合、クローゼットが狭くて置ける服が限られているというのもあるんです。それで色々と手放して、のちのち後悔するんですが(笑)。

新谷 捨てられないものもあるんですか?

光石 上京してすぐの頃に、田舎もん同士で草野球チームをつくるんですが、そのときのユニフォームはまだ持ってます。古着屋で研究して、1950年代のメジャーリーガーみたいなブカブカなやつを、自分でデザインしたんですよ。あれは当時どこにも売っていなかった。今でもそれだけは捨てられないなあ。

新谷 私も大学生の頃、ヨット部の友達とバックドロップでスタジャンをつくりましたよ。それもまだ持っています。

光石 バトウィン(※2)でしょ? あれいいんですよね。やっぱりつくったら捨てられないんだよなあ。

新谷 バックドロップでスタジャンをつくるのは憧れでしたから。

光石 今、そういうカルチャーって残っているんですかね?

土屋 うーん、文化祭でそろいのTシャツをつくるくらいは・・・。でも、すごくイヤでしたね(笑)。

光石 そうか、もうないのか(笑)。

ちなみにアメトラ派の鉄板アイテムともいえる、ラコステのポロシャツはどうですか?

新谷 ビームスで初めて買ったヤツをまだ持ってますよ。お約束のフレンチラコステを中心にアメリカ製のアイゾット(※3)、ジャパン、ペルー、エルサルバドル・・・。いろいろひっくるめて、30枚くらいはありますね。

光石 それはすごいな。ぼくは昔新品を買えなくて、古着屋でアイゾットとか買っていました。あれ、ちょっと後ろ身頃が長いんですよね。今はネイビーの『1212』を3枚程度です。紺好きなので。

新谷 それにしても、ネイビーへの思い入れがすごく深いですね。

光石 子供の頃から好きなんですよ。お袋にもよく着せられていたし。なんでだろう?

新谷 一番清潔で上品に見えますからね。

光石 ああ、確かに。ぼくたち世代の親って、そういうのありません? ちょっと見栄を張る感じというか。だからよく紺ブレも着せられていました。そういうのが刷り込まれているんでしょうね。 

そういえばニューバランスが日本に上陸したのも1980年代前半くらいですかね? 

光石 あれは本当に高かった。当時で3万円くらい(※4)しましたから。

新谷 私はブルックスでバイトをしていたもので、社員やお金持ちのバイト仲間がハワイに旅行するとか聞くと、お金を渡して向こうで『990』を買ってきてもらっていました。当時社内では、L.L.BEANの通販(※5)も流行ってましたよ。

光石 僕も買った! ハミルトンのL.L.BEANネームの時計! あれは1万円くらいで安かったから。

新谷 私も同じモノを持っています(笑)。

※1/1962年生まれのデザイナー。レッドウッドからネペンテスへ移籍後、1989年にN.Y.へ渡り、1999年に同社のオリジナルブランドとして、エンジニアドガーメンツをスタートさせた。
※2/1938年にミネソタ州で創業した、スタジャンの元祖的ブランド。現在でもヴィンテージアイテムとして根強い人気。
※3/アメリカのアイゾット社でライセンス生産されていた、ラコステのポロシャツ。ワニの中に文字が入っていないのと、長めの後ろ身頃が特徴。意外と格好よく着こなすのが難しい。
※4/1980年代前半は国産のスニーカーが3000円程度で買えるところ、ニューバランスやアディダスといった海外製のスニーカーは2〜3万円ほどもした。1985年の〝プラザ合意〟までは、輸入品はとても高かったのだ。
※5/1980年代後半に海外通販ブームが勃発。L.L.BEANやJ.CREWなどのアメリカブランドが安価に買えるとあって人気を集めた。ただし個人情報の取り扱いは雑で、見覚えのないDMが大量に届く被害が多発した。

トラッド好きの心の拠り所、
アロハと若大将!

身も蓋もないことを聞いちゃいますが、ずっとアメトラって、飽きないですか(笑)? 

光石 新谷さん、バブルの頃はどうでしたか?

新谷 一時期ちょっとだけクラシコイタリア的な格好をしたことはありましたよ。大好きな原宿キャシディもイタリアものをよく入れていたので、ルチアーノ・バルベラ(※1)を着てみたりして。でもアルマーニまでは行かなかったな〜。

光石 ぼくもアルマーニには行きませんでした。でも、当時はトラッドショップのジャケットも、肩幅が広くなったり、その影響は受けているんですよね。

新谷 確かに。私のバブル時代は『週刊文春』で夜討ち朝駆け張り込みの世界だったので、スーツや靴は本当に消耗品でした。そういうなかでも増やし続けたのが、フレンチラコステやポロカラーシャツだったんですよね。

光石 ぼくも10代、20代で刷り込まれたものがずっとベースにあって、そこは変わらないですね。当時はあまり買えなかったからこそ、大人になった今、買える喜びもありますし。実はぼく、ずっとサンサーフ(※2)のアロハに憧れていて、コレクションしているんです。でも、東京では恥ずかしくて全然着れない(笑)。

新谷 じゃあ、そのまま置いてあるんですか?

光石 はい。でもハワイに行ったときだけは着るんです(笑)。ハワイでも今どきアロハ着ている人なんていないから、逆に指さされて笑われるんだろうけど、それでもいいやって。

新谷 それは素晴らしいですね! 私はアロハといえば、もちろん〝ハワイのブルックス ブラザーズ〟と称されるレインスプーナーひと筋です。『ハワイの若大将』(※3)も大好きなので、お気持ちはわかりますよ。

そんな異名があるんですね(笑)。映画の『若大将』シリーズは1960年代が中心ですから、新谷さんにとっても、リアルタイムではないですよね?

新谷 リアルタイムではないんですが、子供の頃に『ゴジラ』を観に行くと、併映でやってたんですよね。実はヨットも若大将に憧れて始めたんです。だから大学のヨット部のスタジャンには、普通名前だけをローマ字表記で入れるんですが、私だけ特別に刺繍で〝若大将〟って一行入れてもらって。

光石 (爆笑)

スタジャンに〝若大将〟! それ、大スクープですね。

新谷 当時は後輩たちに無理やり〝若大将〟って呼ばせてました。大学3年生のときに合宿所で誕生日を迎えたんですが、晩ごはんのオムライスに後輩たちが赤いケチャップで「ハッピーバースデー若大将」って書いてくれて。もう「お前ら〜」って号泣ですよ(爆笑)。その後『ポパイ』で働きたくてマガジンハウスを受けるのですが、作文にそのエピソードを書いたら、面接にも行けずに落とされました(笑)。

※1/イタリア屈指のダンディと言われる男、ルチアーノ・バルベラ氏のブランド。1980年代はN.Y.のトラッドシーンでも、イタリアのファクトリーブランドが人気を集めていた。
※2/1940〜50年代のヴィンテージアロハシャツを現代に再現させる、こだわりのブランド。
※3/1961年から1971年まで17作品制作された、加山雄三主演の青春映画。当時における最先端のキャンバスライフが楽しめる。『ハワイの若大将』は1963年公開。

ツイードを着る喜びを
失いたくない!

文春砲の生みの親とは思えないエピソードですね(笑)。光石さんにはそういうアイコンっていたんですか?

光石 『若大将』でいうと、田中邦衛さん(※1)なんて格好よかったですよね。アイビーで。あとは映画『アメリカングラフィティ』でベスパに乗ってるテリーとか、クールス(※2)のメンバーとか。地元の地域性なのか(笑)、ちょっと不良に憧れるような感覚はあったかもしれない。でも、リーゼントはまだしも、革ジャンはあまり着られなかったな。

光石さんのリーゼント&革ジャン姿、見たかったです!

新谷 私は若大将と並んで、ウディ・アレン(※3)が好きでした。

会ったこともあるんですよね?

新谷 そうなんです。大学の卒業旅行で、買い付けも兼ねてブルックスの友人と40日くらいアメリカを旅したときに。彼は当時、N.Y.のマイケルズ・パブで毎週月曜日にクラリネットを演奏していたので、そこに潜入しました。そして休憩時間にトイレに行くだろうと思って張り込んでいたら、本当に会えたんです! 

光石 うわあ、すごい! それは羨ましい。

新谷 いやあ、格好よかった。ボタンダウンじゃなくて、白のレギュラーカラーのオックスフォードシャツに、絶対ラルフ ローレンだろうっていうチノパン、サドルシューズは白×茶じゃなくて、茶×茶のコンビ。ばっちり目に焼き付けましたね。

光石 ツイードは着ていましたか?

新谷 いや、会った時は着ていませんでした。ウディ・アレンといえばツイードにコーデュロイですもんね。

光石 ツイードはぼくにとっての憧れなんです。ヘリンボーンも、ホームスパンも大好き。昔、実家のタンスの上に箱が置いてあって、開けてみたら古いツイードのスーツが入っていました。親父に聞いたところ、昔は休日に会社の寮までテーラーが来て、みんなでスーツを注文していたというんです。そういう話を聞いて、ぼくも将来ツイードのスーツがほしいな、と心から思いましたね。

新谷 着込んで、シワも出て、体になじんだツイードは捨て難いですからね。白洲次郎の有名な言葉もありますし、ある種の魔力があるというか。

光石 そうそう。「ツイードなんて3年くらい軒下に干したり雨ざらしにして着るものだ」っていう。

アイビー派にとっても、ツイードは重要アイテムなんですね。

光石 そう。そして夏ならコードレーンやシアサッカー。こういうのが大好きで。

最近はできる限りモノを減らして、一年中同じ格好をしたいという若い人も多いそうですが、それとは真逆の価値観ですね。

光石 やっとツイードが着られる季節になった、みたいな感覚ってもうないのかな?

新谷 ちょっともったいないですよね。そういうのは。効率性とか生産性ばかりを求めちゃうと、人生を損しているような気がするな。今日光石さんと会うのに、何を着ていこう?っていうのも、人生のひとつの物語じゃないですか。

光石 本当にそうですね。

カルチャー好きな若い女性たちは、そういう同世代の男の子よりも、光石さんのほうに魅力を感じると思いますよ!

光石 いやいや、そんなことはないですよ。

新谷 なにかお困りのことがあったら私に言ってください(笑)。

光石 すぐ電話します(笑)。

※1/『若大将』シリーズで、若大将のライバル〝青大将〟役を演じる。バブル全盛期でもくるぶし丈の細身パンツを愛用した、こだわりのアイビー俳優。
※2/1975年に結成されたバンドでありバイクチーム。矢沢永吉のバンド「キャロル」の親衛隊としても活動し、舘ひろしや岩城滉一、横山剣を輩出した。
※3/1970年代後半から、モテない文化系男子の心の拠り所として君臨。現在のアメリカではタブー的存在になっているので、ヘタにInstagramに挙げると炎上する危険アリ。

新谷学と光石研。トラッドの
新しい時代が始まる!

光石さんはYouTubeの『東京古着日和』も大人気ですし、つい最近、初のエッセイ&スタイル本『SOUND TRUCK』を出版されました。長年好きで続けていたスタイルに時代が追いついてきたというのが、とても面白いですよね。私たちの大好物な、ラコステやニューバランス話も満載ですし。

新谷 それは楽しみですね! ブルックス ブラザーズが創業200周年記念で出版した写真集に、アンディ・ウォーホルやルイ・アームストロングといった昔の顧客がたくさん登場しているのですが、みんな控えめなのに格好いいんです。光石さんの存在も、それに近いものがありますよね。

光石 あの写真集は持っていますが、ぼくなんてそんな(笑)。今回の書籍は若い編集者に声をかけてもらったのですが、この年でおじさんが着ている服に注目していただけるなんて思ってもみませんでしたよ。

そして新谷さんは、『週刊文春』から月刊の『文藝春秋』という、100年の歴史を誇る雑誌に異動されたという。別にこじつけるわけではありませんが、今まさにお二方のもつトラディショナルな価値観に注目が集まっているような気がします。

光石 異動されたんですね! 以前『週刊文春』がビームスとコラボレートしたムックや、スタイリスト私物がつくった『文春リークス』スウェット(※1)は、すごく印象に残っています。あれ、俳優仲間もけっこう着ていましたし。

新谷 雑誌はクロスオーバーというか、いろいろな要素を混ぜていくのが大切だと思うんですよね。最近は、政治もカルチャーも、あらゆるものがあまりにもカテゴライズされすぎているというか。今回光石さんとお会いできたのも、まさにクロスオーバーで、いい年したおじさんふたりが、こんなにも熱く昔の洋服の話をしているっていうのもある種異様かもしれないけれど(笑)、その熱はきっと誰かに伝わると思うんですよね。

光石 そうですね。ぼくは今まで、この年で洋服を好きだっていうことに、ちょっと恥ずかしさを感じているところがあったんです。でも今日新谷さんとお会いできてすごく嬉しかったし、自信がつきました。同じ価値観を共有してくれる方がいたんだって。

新谷 だってツイードとか、死ぬまで着たいですよね?

光石 確かにそうなんですけど、そんなことをおじさんが声高に言っていいのか、とも思うじゃないですか(笑)。

新谷 いや、文句を言いたい人には言わせとけばいいんですよ。私なんて昨日も自分へのご褒美(※2)にJ&Mデヴィッドソンのベルトを買っちゃいましたけど、そういうのが明日への活力にもなるじゃないですか。

光石 あのベルト、長持ちするんですよね。奥さんはご褒美くれないんですか?

新谷 くれないどころか、捨てられます(笑)。コーギーのアーガイルニットを捨てられたときは泣きそうになったなあ・・・。

光石 ぼくも軍パンの裾が擦り切れたからって、捨てられたことがあります。いやいや、これからがいいところなのに〜(笑)。

新谷 いやあ、ふだんは切った張ったの世界にいるので、光石さんとこういうお話ができると癒されるな。今日はありがとうございました!

※1/新谷さんと、人気スタイリストの山本康一郎氏が長年の付き合いだったことから始まったプロジェクト。220着のスウェットが30分で完売したという伝説を残した。
※2/この対談が行われた日の数日前には、芥川賞選考委員会が行われている。『文藝春秋』の編集長はその司会を務めるため、とてつもないプレッシャーに晒されるのだとか。
SOUND TRUCK

光石研さんが2022年2月に発表したばかりの、人生初のエッセイ集! 今最も気になるファッションやライフスタイルから、暗黒時代の思い出話にいたるまで、たくさんの〝気づき〟が秘められている。ぼくたちのお洒落と人生にとって、道標になってくれる一冊かも!? 撮影は高橋ヨーコさん、装丁は有山達也さんと、豪華クリエイター陣の仕事にも注目。
パルコ出版/184ページ/1,870円(税込)

『文藝春秋』2022年3月号

創刊100周年を誇る〝究極の雑誌〟『文藝春秋』。新谷編集長のもとでリニューアルを果たした同誌は、硬派なオピニオンと文芸に加え、美術史やファッションなど、本格志向のぼくたちが気になるジャンルを網羅。ちなみに表紙を手がけているのは、村上隆さんの弟の日本画家、村上裕二さんだ。おじさんに独占させておくにはもったいない面白さだし、こういうのを小脇に抱えていると格好いいと思うよ!

光石研

1961年生まれ。福岡県北九州市出身。高校在学中の1978年に『博多っ子純情』で映画主演デビュー。1980年の上京後に本格的な俳優活動を始め、1990年代後半には日本映画界に欠かせない俳優として、その地位を確立する。なんと今までに出演した映像作品は 400本超! 近年ではYouTube『光石研の東京古着日和』などを通して、ファッションやライフスタイルのセンスにも注目が寄せられている。Instagramもチェックしてみよう。

新谷学

1964年生まれ。東京都八王子市出身。早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業後、株式会社文藝春秋に入社。『Sports Graphic Number』や『文藝春秋』などの編集部員を経て、2012年に『週刊文春』の編集長に就任。忖度なしの編集方針で同誌と『文春オンライン』をひとつのカルチャーへと導き、現在は創刊100年周年を迎えた『文藝春秋』で編集長を務める。雑誌界におけるクラシックの頂点ともいえる同誌は、ぼくたちが読んでも面白い!

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