92歳のアイビーボーイ
穂積和夫と
Mr.SLOWBOYの
〝心の師弟〟
イラストレーター対談!
撮影文/山下英介
通訳/高原健太郎
撮影・資料協力/テーラーケイド
ロンドンを拠点に活動し、世界的に注目を集めているファッションイラストレーター、Mr.SLOWBOYことFei Wang(フェイ・ワン)さん。とびきりハイセンスなのに、見る人を暖かな気持ちにさせる彼のイラストからは、トラディショナルな装いへの愛情はもちろん、その誠実な人柄まで伝わってくる。実をいうと、そんな彼が心の師匠と仰いでいるのは、「アイビーボーイ」の生みの親であり、なんと1950年代から活躍を続ける、日本が誇る超大御所イラストレーター、穂積和夫さんだった! なんと穂積先生は1930年生まれ。当然「ぼくのおじさん」史上最高齢である・・・! 今回は、そんな彼が数年ぶりに来日するタイミングを活かして、ふたりの対談をセッティングさせてもらった。ちなみに対談場所は、アメリカントラッドの聖地として世界的に知られるテーラー、「テーラーケイド」だ。立ち会った誰もが感動したこの贅沢すぎる時間を、みんなにもじっくりと味わってもらいたい。
世代も国籍も超えた
イラストレーターの交流
Mr.SLOWBOYことフェイ・ワンさんの心の師匠は、ここにいる穂積和夫先生だとか。そういえば数年前に食事に行ったときに、「明日は穂積先生に会うからお酒は飲まない」と言っていたのを思い出しました(笑)。もともとどこで穂積先生の存在を知ったんですか?
フェイ 2008年に初めて日本を旅したとき、大阪の古書店で先生の本を見つけたのがきっかけです。軒先のシェルフに置いてあったのですが、その場で夢中になってしまいました。なにしろ、今までぼくが見てきたファッションイラストとは全く違いました。
穂積 なんの本?
フェイ 判型の小さい本です。ええと・・・『IVY BOOK』?。
穂積 ああ、『絵本アイビーボーイ図鑑』ですね。あれは1980年に講談社から出したんだけど、いちど絶版になった後、間に入ってくれる人がいて復刊したんですよ。それが商売っけたっぷりのおじさんで、重版以降ぜんぜん印税を払ってくれなかった。それで再び絶版にしてもらったの。その後(2014年)極め付きをつくりたいと言われて出版されたのが、万来舎版です。彼らはよくやってくれました。
あの伝説の書籍に、そんな逸話が(笑)。フェイさんは、当時からイラストレーターとして活動されていたんですか?
フェイ ぼくは当時広告代理店のクリエイティブ部門で働いていたんですが、実をいうとファッションにはそれほど興味がなかったし、描くイラストも替えの効くようなものばかりだったんです。でも、穂積先生の本を見つけてから7年後に、社内でファッションイラストを描く仕事があったのですが、そこでもっと自分らしい、スタイルのある作品を描かなくちゃ、と考えたんです。そこで頭によぎったのが、穂積先生のアイビーボーイ。そしてアイビーボーイになぞらえて、Mr.SLOWBOYが生まれたんです。
©︎Mr.SLOWBOY
驚きました。Mr.SLOWBOYはアイビーボーイの影響から生まれたんですね! 穂積先生は、フェイさんのイラストをどこで知ったんですか?
穂積 教えてくれるファンの方がいて、5年くらい前に知りました。上手いですよね。とても丁寧で、何より清潔感がある。それで彼が来日したときに、近所の喫茶店でお会いしました。
フェイ 今日の格好は、以前お会いしたときと同じですね。
穂積 そうだったかな?
戦後のファッションイラストは
穂積さんが切り拓いた!
ロンドンで暮らすフェイさんから見た、穂積先生の作品の魅力とは?
フェイ 穂積先生以前のファッションイラストって、もっと堅いものだったように思います。
穂積 そうですね。ぼくが登場した後も、その傾向は続きましたが。
フェイ それに対して穂積先生のイラストは温かみがあって、親しみやすい。・・・シンセツ? ぼくが携わっていた広告業は、顧客に理解してもらうことが大切な仕事だったので、そういう意味でも勉強になりました。オリジナリティがあって、記憶に残るイラストですよね。ただ、穂積先生のお名前と作品は欧米でも知られていますが、そのパーソナリティについては検索してもあまり出てこないんです。なので今日はいろいろお話を伺えるのを、楽しみにしていました。穂積先生は建築のお仕事もされていたんですか?
穂積 大学(東北大学工学部建築学科)では建築を学んで、卒業後に設計事務所に入りました。でも、面白くないし給料も安い。しかも建築の才能にも自信がなくなっちゃった。うーんとなっているときに、日本におけるファッションイラストレーションの第一人者だった長沢節先生が、「セツ・モードセミナー」を開校することになったんです(1954年)。なので会社が午前中で終わる土曜日に通って、そこで絵の勉強をしました。ファッションイラストの勉強なんてどういうものかわからないから、三角定規とか色々な道具を持っていったけど、そんなものは全く必要なかった。モデルのまわりを囲んで、自分の好きな位置から描くだけ。でもそのうちに、病気になっちゃった。
病気というと?
穂積 描きたくて描きたくて、仕方なくなったんです。
魅力に取り憑かれてしまったんですね。でも1950年代当時、日本ではまだメンズのファッションイラストの概念って曖昧でしたよね。
穂積 アメリカから取り寄せた『エスクァイア』や『プレイボーイ』のような雑誌を見て、うめえなあって感心していました。ただちょうどその頃(1955年)、『男の服飾』という雑誌が創刊されたんです。
『MEN’S CLUB』の前身となる雑誌ですね!
穂積 そこで活躍していた友達のフォトグラファー、佐藤明がぼくをこの世界に誘ってくれたんです。「今の会社でもらっている給料を補償してくれないとやっていけないよ」と言ったら、YAMAHAのPR冊子のレイアウトを任せてくれて。もちろんそんな仕事は初めてでしたが、本屋さんで編集手帳みたいな本を何冊か買って徹夜で読んだら、できちゃったんですね。YAMAHAからも何も言われずに、そのまま本になりました。その冊子が16ページで、ギャランティが1ページあたり1600円。そのときぼくが会社からもらっていた月のお給料が、16000円。じゃあ辞めちゃおうかと。
そういったご友人の導きがあったんですね! ちなみにいうと、佐藤明さんとは、VIVOという写真家集団に属していた巨匠で、日本におけるファション写真家の草分け的存在ですね。
穂積 そうです。彼は一生の親友でした。でも、最初は彼もぼくの実力に対して、それほど評価はしていなかったみたい。ただ彼が仕事で師匠(節さん)に会ったとき、師匠がぼくのことをとても褒めてくれたんです。それで彼がぼくを見る目が変わったんですよね。
長沢節さんは、どんな方でしたか?
穂積 ひとことでは言い表せませんが、一生における最高の恩人のひとりです。いろんなことを教わりましたね。色彩の感性を磨くためには、自然から色を学ばねばならないというので、休日に水彩画を描いて持っていったら、クソ味噌に怒られましたよ。芝居の書き割り描いてんじゃねえんだよって。本物の水彩画とはこういうものだって師匠のアトリエに連れていかれて、見せられたのがわけのわからないフォービズムの絵(笑)。でも、なんとなくこういう風に描けばいいんだなってわかって、次に描いた海の絵は、とても褒めてもらった。
とても厳しい方だったんですね。
穂積 当時のぼくは知っている画家なんてピカソやマティスくらいという間抜けな状態だったんですが、そこらの大学生みたいに画論をぶったりしないので、可愛がってもらいました。みんなクソ味噌に言われてやめちゃうんですよ(笑)。そんなぼくの師匠や中原淳一さんの世代が、日本におけるファッションイラストレーションの第一世代です。その後を継いだのがぼくの世代ということになりますね。ただ、ぼくが出てきてから、それまでスタイル画と言われていたものが「イラストレーション」と呼ばれるようになったんですが。
でも、そのふたつの世代の間には、大きな違いがありますよね。1950年代の日本は、アメリカ文化が大量に流入してきていますから。
穂積 会社をやめてイラストレーターになろうかというときに、ぼくは『エスクァイア』に載っているような絵が好きだったので、一生懸命マネしました。師匠はヨーロッパに憧れていた世代なので、「アメリカのマネか」とすごくバカにされましたよ。でも、ぼくの中にはアメリカのテイストだけじゃなく、師匠譲りのパリのエスプリも叩き込まれている。それが我ながら、とてもよかったと思いますよ。ただ、結局1950年代の『GQ』などの流れを受け継いだイラストレーターは、日本人ではぼくと松本秀実だけでしたね。彼は画家のベラスケスに憧れて、スペインに移住しちゃったんですが、もう亡くなったそうです。ぼくの後の世代は、グラフィックデザイナーからイラストの道に入った人が多いんです。小林泰彦さんとか和田誠さんとか。みんな上手いですよ。
ということは、実質この系譜は穂積先生ひとりということになりますね。
オリジナリティは
飽くなき努力から生まれる
フェイ その話とはちょっと違うかもしれませんが、先生のイラストからは、誠実さをすごく感じます。
穂積 誠実かどうかは自分ではわかりませんが、〝俺流〟って結局、トレーニングの成果でしかないんですよね。20代はまだ生徒のうち。30代は仕事を通じて練習させてもらって、40代になって初めて俺の描きたかった絵はこれだ、というものが出せるのかな、と。それで50代になったら遊ぶ。まあ結局遊んで暮らせたわけでもないけど(笑)、そんなふうに目標を設定してがんばっていました。当時から、本当に自分の言いたいことを言えるのは50代からだと思っていましたよ。
20代はまだ生徒のうち! 若いうちからそういう思いで取り組まれていたんですね。
穂積 『エスクァイア』や『GQ』みたいな写実的なファッションイラストはとても難しいです。こういった世界を自分のものにするには、それだけの技量を身に着けなくちゃいけないな、という気持ちだったみたいですよ。当時のぼくは。
なるほど(笑)。アイビーボーイ、もしくはアイビー坊やも、そういうトレーニングの結果生まれたものなんですか?
穂積 広告イラストって、どんなに上手くても作者の名前を入れないでしょ? なので自分は積極的にアノニマスでありたいと思ってやってきました。でも展覧会に出すような絵も同じようなものだとつまらないから、アイビーに凝り出した頃(1963年)、全くの遊び半分で面白おかしく描いてみよう、と思って生まれたのがアイビーボーイなんですよ。
遊び半分!
穂積 日本の「凧絵」ってあるでしょ? 木版画の。そのタッチを使って漫画風に描いてみようと思ったのがアイビーボーイなんですが、それがVANのポスターに採用されて当たっちゃったんですよね。最初のやつは下手くそで、今出されたら困っちゃいますが、それを十年続けて、やっとここまでのものにリファインされました(『絵本アイビーボーイ図鑑』)。で、今はこう。もともと写実的なイラストばかり描いていたから、こういうこともできるんだよって始めたわけですが、今は逆に、真面目な絵は見向きもされなくなって、遊びで描いた絵がいまだに残っている。世の中とは皮肉なもので、今じゃうちの子供よりも立派に親孝行していますよ(笑)。最近では香港で、アイビーボーイのフィギュアも販売されているようです。
アイビーボーイは孝行息子(笑)。
穂積 もともとは祥ちゃん(ヴァンヂャケットの石津祥介さん)のところに持っていって、どこかに飾ってくださいって言ったら、翌日電話があって、「あれをそのままポスターにするから」って。今さら原稿料だなんだってのは面倒だから、かわりに好きな服を持っていってくれって言われて、倉庫からブレザーを頂いて帰りました。
アイビーボーイのギャラはVANのブレザー一着(笑)! それはすごい時代だなあ。しかしそういった遊びから生まれてきたとは知りませんでした。
フェイ ぼくは初めて見た瞬間から、この絵の作者はものすごく勉強されてきたんだな、と感じましたよ。ただ、ぼくが見たのはオリジナルの作品ではなかったので、最初はコンピューターで描いたのかな?とも思ったんです。しかし細部を見ると全く違う。それで研究するようになりました。
なるほど、見る人が見ればその技量は一目瞭然なんですね。でも、分かってない人からは、すぐ描けるんでしょ? なんて言われたりしなかったですか?
穂積 「私にも描けそう」なんて言われることもありますよ。そういうときは、「じゃあおおいに描いてください」って返すんですよ。
(笑)。しかし想像力のない人もいるもんですね・・・。
プロは〝できない〟と
言ってはいけない
そもそもファッションイラストレーターの元祖って誰だったんですか? ロートレックとか?
穂積 そう思ってくださって結構です。そのあとはルネ・グリュオーですね。グリュオーのいいのは、グラフィカルなことです。セツ先生も、初期はグリュオーから影響を受けていました。
フェイ セツ先生は、ロートレックやグリュオーからのインスパイアをもとに、ご自分のスタイルをつくり出したんですね。そして穂積先生の『絵本アイビーボーイ図鑑』も、その系譜にあるという。そういえば、以前穂積先生の記事をネットで読んでいたときに、サムライ文化からの影響について少し書かれていたのですが、それはどういうことですか?
穂積 ああ、それはぼくが初めて書いた文章の本、『着るか着られるか』(1964年・草思社)のことじゃないかな。要は〝斬るか、斬られるか〟にかけた洒落ですよ。だいぶ後になって、フランス文学者の鹿島茂さんが「単なるお洒落の指導書じゃなくて、意外と論になってる」なんて雑誌で褒めてくださったのが、ちょっと話題になったんです。
フェイ そういうことですか(笑)。
穂積 人生は自分の思う通りにはまわってくれなくて、色んなことをしてきました。1960年代後半には、『MEN’S CLUB』でクルマのイラストを描かせてもらったんですが、そのときは猛練習して『自動車のイラストレーション』(1969年・ダヴィッド社)という本を出しました。これはかなり売れたんですが、のちに京都にあった自動車デザインの専門学校で、先生みたいなこともやりました。その後は「建築やってたんだからできるでしょ?」なんて言われて、法隆寺に代表される日本の建造物をたくさん描いてきましたが(『日本人はどのように建造物をつくってきたか』シリーズ/草思社)、これは10冊描くのに20年かかりました。CGレベルのものを描くために調べまくって、大先生の論文の間違いを発見するほどになりましたよ。まあ黙ってましたけど(笑)。大学の頃には建築なんてあまり興味がなくて、辛うじて単位をもらったくらいなのにね。
アイビーボーイに代表されるメンズファッションイラストのイメージが強い穂積先生ですが、クルマや建築物の絵は恐ろしく緻密ですね! 圧倒的な技術力だなあ。
穂積 それらを同時進行でやっていましたからね。でも、一番難しかったのは芸者さんですね。仕事で京都に行く傍ら20年間祇園に通って、その絵を描く上での細かいルールが、ほとんどわかるようになりました。
なんという努力と探究心・・・!
穂積 プロのイラストレーターとしては、I can’t と言いたくないんです。ネットのない時代、X-RAYに当てたようなクルマのイラストを描くために、どれほど調べなくちゃいけなかったか・・・。
それは痺れるなあ。自分のスタイルを見つけるためには、やはり壮絶な修行が必要なんですね。
穂積 ぼくの勉強法はひらすら鉛筆でスケッチするだけなんですが、何千枚描いたかわかりません。かといって有名になりたいとかお金持ちになりたい、みたいな野心や目標は全くなくて、ただ上手くなりたい、自分が納得できるイラストを描きたい、という気持ちだけでした。さすがにこの歳じゃ気力も湧かなくて、この3年間イラストは描いていませんが。
やっぱりフェイさんも、そういった修行の時期があったんですか?
フェイ さっき自分がイラストを描くようになったときに、アイビーボーイのことが頭に浮かんだと言いましたが、決して真似をせず、全く違ったアプローチで描くことを目標に掲げました。修正に修正を重ねて、それでもどこかアイビーボーイは自分の頭の中に存在して、そうした中から生まれたのがMr.SLOWBOYなんです。そのスタイルはまだ完成していません。今も続いているんです。
穂積 そういうもんですよ。最初ぼくは師匠のマネばかりしていたんですが、亜流は何人いてもしょうがねえぞ、と怒られた。かといって、違ったものを描こう描こうとしても、どうしても似ちゃうんです。それを師匠に相談したら、「似るほど上手くねえし、今に似せようたって似なくなっちゃうよ」って。ひとことで解決させられました(笑)。
マネすることも、技術を習得する段階では必要なんですかね?
穂積 そうです。ある程度マネして、そこからどういう風に自分のスタイルをつくりあげるか、というのが大切です。ただCGやAIがどんどん発達している今は、そういうふうに徹底的にデッサンを積み重ねるイラストレーターは、だいぶ少なくなりました。ぼくは最近、ファッションイラストレーションとは20世紀の文化だったのかな、と考えているんです。この文化がこれからも残るのか、それともなくなるのか・・・ぼくは少し悲観的です。それはファッションデザイナーの世界でも同じことですが。
確かにいろんな意味で、今はその瀬戸際なのかもしれませんね。穂積先生は、やはり昔からCGの時代が来ることは予想されていたんですか?
穂積 はい。実は教わったりもしたんですが、忙しすぎて結局マスターできませんでした(笑)。
日本のファッション
イラスト文化は偉大だ!
「テーラーケイド」山本祐平 ぼくからも一言、口を出していいですか(笑)? 穂積先生を戦後日本におけるファッションイラストレーターの2ndジェネレーションとすると、3rdジェネレーションが綿谷寛さんやソリマチアキラさん、早乙女道春さんということになります。そして面白いのが、その後を継ぐ4thジェネレーションが、ロンドンのフェイさんや、N.Y.で活動するディック・キャロルさんといった、外国人であることなんです。しかもフェイさんのような存在が出てきたことによって、そのインスピレーション源である穂積先生に再び注目が集まっている。日本の文化がそうやって受け継がれていることが、自分としてはとても興味深いんです。
フェイ その世代論はとても面白いですね。ぼくは中国で生まれて、今はロンドンに住んでいますが、穂積先生はもちろん、大橋歩さん、小林泰彦さん、綿谷寛さん、ソリマチアキラさんといった方々が築き上げてきた、日本のファッションイラスト文化からは、大いにインスピレーションを受けています。
山本 最近は若いお客さんが穂積先生やフェイさんのイラストを持ってきて、こういうスーツをつくってほしいと注文するんですよ(笑)。
日本のファッションイラストレーション界って、特殊ですよね。そもそもフェイさん以前、海外にはほとんど存在しなかったカルチャーですし。日本でいう3rdジェネレーションが、ぽっかり抜けているんですよね。
穂積 ああ、確かにいませんね。しかも日本でも、婦人ものを描くその世代のイラストレーターはいないでしょう? かつて日本で婦人ものを描くイラストレーターは、『装苑』あたりを目標にやってきましたが、そのうち売れるようになったら女性ファッション誌やブランドは、みんなパリのイラストレーターに直接注文するようになってしまった。それで日本における婦人もののファッションイラストレーターは、すっかりいなくなってしまったんです。おこがましいことを言わせてもらえば、日本のメンズファッションイラストが残ったのは、ぼくがいたからだと思いますよ。・・・やっぱりこれは偉そうだな。今のは書かないでもらっていい?(笑)
すみません、これはものすごい貴重な時代の証言なので、謹んで書かせていただきます(笑)。
フェイ ぼくの知る限り、ちょっと前までは、イギリスに限らず世界的に見ても、メインストリームで活躍するファッションイラストレーターは、ほとんどいませんでした。最近は若いイラストレーターがだいぶ増えましたが、今までと違い顔に表情があったり、感情が伝わってくるようなイラストがトレンドになっています。
穂積 それは非常に難しい。下手なヤツが表情を出そうとすると、下品になるんですよ。
フェイ なるほど(笑)。ぼくは5年前に穂積先生にお会いしたときにアドバイスして頂いたことを、今でも心に刻んでいます。今のスタイルに固執せず、常に洗練させていけって。なので今日は、ここ1〜2年で始めたスケッチを、ぜひ見てほしいと思います。これらはすべて即興で描いたものなんですよ。
穂積 まだ現在のイラストの延長線上にあると思うけれど、でも上手いですね。ならば、ぼくもまた違った絵をお見せしましょう。これは嫌いな絵。こんなの描いてちゃダメです。そしてこっちが好きな絵。下手な絵だけどお気に入りで、私の寝室に飾っています。若いときは上手く描きたかったけれど、歳を取ったら下手なのが好きになってしまった(笑)。
穂積先生から、フェイさんにアドバイスしたいことはありますか?
穂積 5年前と同じですよ。今の絵に固執するなって。絵の世界って奥が深くて、ぼく自身も何も完成しないうちに、92歳になっちゃったな、という思いがありますから。
穂積先生ほどの達人でも〝極めた〟とはならないんですね!
穂積 それは永遠にそうです。ぼくはあまり生意気なことを言わなかったんで師匠に好かれたんですが、今なら言えますよ。ゴッホはドラクロワに憧れたけど、うまくいかなくて自殺したんだよ、なんてね(笑)。
それは深いなあ(笑)。決してノーと言わず、あらゆる絵のジャンルに挑戦してきた穂積先生ですが、描きたくない絵って、あるんですか?
穂積 戦争の絵ですね。それしかないでしょう。
フェイ それはぼくも同じです。今日は本当に満足しています。ありがとうございました!
- テーラーケイド
今回、メンズファッション史の歴史に残る対談の場所を提供いただくとともに、対談を進める上では欠かせない、貴重な資料をたくさん用意してくださったのが、東京・渋谷のテーラー「テーラーケイド」だ。この場を借りて、オーナーの山本祐平さんに感謝の気持ちを伝えたい。
住所/東京都渋谷区宇田川町42-15 中島ビル2階
TEL/03-6685-1101
1930年東京生まれ。1953年に建築設計事務所に就職するが、54年に開校した「セツ・モードセミナー」を経てイラストレーターに転身。創刊期の『MEN’S CLUB』やVANに深く関わり、メンズファッションイラストの分野を切り拓く一方で、古きよき日本の歴史や暮らし、建造物などをテーマにしたイラストでも、高く評価されている。
中国・北京出身。北京の広告代理店のクリエイティブ部門で活躍し、世界三大広告賞のひとつ、カンヌライオンズの審査員を務める。その傍らシンガポールやロンドンの芸術大学に通い、イラストレーションを習得。2015年にはロンドンに移住し、イラストレーターとしての活動を開始する。雑誌への執筆のほか、世界的ブランドとのコラボレートも多数。今や国際的に注目されるクリエイターだ。