2024.11.19.Tue
今日のおじさん語録
「礼儀作法は、エチケットは、自然にその人間に湧いてでてくる。/山口瞳」
『ぼくのおじさん』<br />
インタビュー
15
連載/『ぼくのおじさん』 インタビュー

POPEYEよりも早い!
1965年に渡米した
アイビー青年麻田浩が
伝説の〝呼び屋〟に
なるまで(前編)

撮影・文/山下英介

「ぼくのおじさん」は、松山猛さんが出演した「加藤和彦トリビュートバンド」をきっかけに、ふたりの素敵なおじさんと出会った。ひとりはこの「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル」を開催した、麻田浩さん。そしてもうひとりは、『狭山ハイドパーク・ストーリー1971〜2023』というフォトブックを編集した、粕谷誠一郎さんだ。実は麻田さんは、1970年代から海外のミュージシャンを日本に招聘する〝呼び屋〟つまりプロモーターとして活躍している、日本の音楽シーンにおける偉大なるキーパーソン。そして粕谷さんは「POPEYE」の創刊メンバーであり、今もなお格好いい紙の本にチャレンジし続けている現役の編集者。そしてふたりをつなぐ共通項は、1960年代のアイビーだった! 今日は麻田さんのインタビューに粕谷さんも参加してもらって、戦後のアイビーカルチャーと音楽シーンの関わりについて教えてもらった。

横浜のアイビー少年、
フォークソングに目覚める

この間の「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル」、本当に楽しませてもらいました! そもそも麻田さんと粕谷さんは、どういった経緯で知り合ったんですか?

粕谷誠一郎 ぼくたちの世代にとっては、麻田さんがやってたバンド「モダン・フォーク・カルテット(MFQ)」は有名だったから、もともと一方的に知ってはいたよ。でも初めて会ったのは、1978年頃に「POPEYE」で担当した『アイビーを育てた17人』という企画の現場で。そのときは畏れ多くてあまり仲良くできなかったけど、2年くらい前にデザイナーの眞鍋立彦(詳細は後編にて)さんに紹介してもらって、一緒に飲むようになったんだよね。

えっ、麻田さんは音楽の世界の方だと思っていましたが、“アイビーを育てた”立役者でもあったんですか? 今日はそのあたりのお話もじっくり伺えればと思います。もともと麻田さんはどちらのご出身なんですか?

麻田浩 横浜生まれ横浜育ちで、こっち(狭山)に来たのは30歳手前くらいのことでした。

自伝(『聴かずに死ねるか! 小さな呼び屋トムス・キャビンの全仕事』)を読むと、昔からものすごくお洒落だったようですね。お父さんは日本郵船の船長で、学生の頃から洋書店の「イエナ」やレコード店の「ハンター」に通ったりして。

麻田 どうなんですかね? 今でいうオタクですよ。格好いいかどうかはわからないけど、とにかく好きだったから。ぼくはちょっと上の世代、たとえば細野晴臣くんのお姉さんの世代からいろんなことを教えてもらったんですよ。FEN(米軍関係者向けのラジオ放送)は、10歳くらい上のいとこに教えてもらったのかな。彼はそれこそ進駐軍に勤めていたんですが、横浜の山手に家があったので、休みになると必ず遊びに行ってました。

こちらが麻田浩さん。〝呼び屋〟という仕事のイメージとはちょっと違う、穏やかで紳士的なおじさんだ。
当時の横浜はやっぱり特殊な場所だったんですか?

麻田 そうですね。ただバカにされてましたけど。「そうじゃん?」なんて言葉を使うから、中学から都内の明治学院に行くと、〝川向こう〟なんて言われたりしてね。でもこっちはこっちで、東京の連中をバカにしてたけどね。あの頃、東京のお洒落な人たちだって、みんな元町あたりで買い物してたんだから。

粕谷 ぼくは麻田さんよりひと世代下なんだけど、本牧にあったライブハウス「ゴールデンカップ」あたりに行くと、品川ナンバーのクルマはみんなイタズラされてたね(笑)。

麻田 ああ、東京の人はバカにしてたからね。

粕谷 ぼく、70年代の「POPEYE」で近田春夫さんと一緒に、「クマンバチ」っていう本牧の暴走族を取材したのよ。そしたらそこのボスが「帰り送ってやるよ」なんて言うんだけど、絶対大麻やってるのよ。すごい怖かったけどケータハムのセブンで送ってくれてさ。ぶっ飛んでるからヘッドフォンしながら運転するわけ。早く着かねえかなって(笑)。

このインタビューをセッティングしてくれた粕谷誠一郎さん。「POPEYE」のみならず、伝説の雑誌「All Right!」の創刊にも携わった、パワフルなおじさんだ。
暴走族がケータハムのセブン(笑)。横浜の不良はお洒落だったんですね! 麻田さんもそういう不良のひとりだったんですか?

麻田 いや、ぼくは全く真面目でしたよ。ただ、音楽も乗り物も大好きでしたけど。 

ファッションはアイビー?

麻田 そうですね。当時の横浜では「フクゾー」とか「ポピー」といったお店が人気で、ちょっと独特のトラッドがありました。まだ〝ハマトラ〟とは言われてなかったけど、〝横浜トラッド〟みたいなことは言われていたかもしれない。まあ、バンドやるなら格好が一番大切だと思っていたから(笑)。

大学生時代の麻田さん。横浜の大桟橋で撮られた写真だという。パンツ丈とスニーカーのバランスが妙に今っぽくて格好いい!
麻田さんは1963年に「MFQ」を結成してバンド活動を始めるわけですが、当時はフォークとアイビーファッションは親和性の高いカルチャーだったんですか?

麻田 ぼくがバンドを始めたきっかけのひとつでもあった「キングストン・トリオ」は、アイビーリーガーではなかったものの、メンバーにスタンフォード大学生もいたし、まさにリアルなアイビーでしたよね。彼らがそろって着ていたちょっと袖の長い半袖ボタンダウンシャツがすごくほしくて。でも当時の日本では売っていなかったです。だから外苑前にあったタジマ屋さんというオーダーシャツ屋さんに、「キングストン・トリオ」のLPジャケットと下北沢で買った生地を持ち込んで、つくってもらっていました。当時は外国人向けのテーラーさんがいくつかあったんですが、タジマ屋さんもそのひとつでしたね。

こちらが「モダン・フォーク・カルテット(MFQ)」。1963年に結成し、1965年秋に解散している。1962年にハワイで結成された「The Modern Folk Quartet」のことを知らずに命名したという。右から眞木壮一郎(マイク眞木)さん、重見康一さん、麻田浩さん、渡邊かをるさん。

粕谷 あれって、VANヂャケットじゃなかったんですか?

麻田 後につくってもらったんですよ。ぼくたちは雑誌の「MEN’S CLUB」やVANさんに、すごく可愛がってもらっていたので。当時(60年代半ば)は何かイベントがあったら、必ず出してもらっていましたからね。

ぼくらはフォークソングというとベルボトムのジーンズなんかを連想しちゃいますが、1960年代、フォークとアイビーはかなり密接な関係だったんですね!

麻田 ぼくが1975年に「トムス・キャビン」を立ち上げて海外のミュージシャンをブッキングするようになってからも、VANにグッズをつくってもらったり、協力してもらいました。

POPEYEよりもずっと前に
本物のアメリカを見た!

麻田さんのバンド「MFQ」は、なんと1965年にアメリカに行っているんですね! 「POPEYE」の前身になった「MADE in U.S.A. Catalog」の10年前って、めちゃくちゃ早いですよ。

麻田 大学の夏休みに「MRA(モラル・リ・アーマメント=道徳再武装運動)」という団体から招待してもらったんです。海外旅行が自由化されてすぐの頃で、まだ1ドルは360円でした。このときはロッキード社の〝コンステレーション〟という垂直尾翼が3つある飛行機に乗ったんですが、羽田空港を出たらまずウェイキ島で補給して、ハワイで故障して、それからシカゴに着いて、っていう流れで。

粕谷 えっ、麻田さん、あれ乗ったんですか? 俺も大好きなんですよ〜。

麻田 あの飛行機に乗れたのはラッキーでしたね(笑)。最初はミシガンのマキノ島でコンサートをやったら帰るという話だったんですが、なぜか行ってみたら「シングアウト’65」というショーに入れられて、メンバーといっしょに2ヶ月半アメリカ大陸を横断するツアーをしたんです。

それはすごい経験でしたね!

麻田 「道徳再武装運動」っていう名前のとおり、ちょっと右翼的な団体で、金持ちが住んでいるところをまわって演奏をして、行く先々で寄付を募るというショーだったんですよ。ケネディ家の別荘があったケープコッドのハイアニスの町にも行きました。

あまり自由時間はなかったんですか?

麻田 決められたスケジュールではありましたが、メンバーみんなで靴を買いに行ったりしてましたよ。ぼくは日本になかったレッドウイングのワークブーツ。マイク眞木(※1)はトップサイダーのデッキシューズ。渡邊かをる(※2)はコインローファーだったかな。

※1/その後『バラが咲いた』で人気を集めることとなるフォークシンガー。真木蔵人さんのお父さんとしても有名。
※2/その後VANヂャケットを経て独立し、人気アートディレクターに。〝現代の魯山人〟と呼ばれるほどの趣味人として、ファッション・マスコミ業界では有名だった。
アメカジスタイルをこよなく愛する麻田さん。ウエスタンスタイルは彼にとっての正装だ。
もしかしたら麻田さんは、レッドウイングを初めて履いた日本人かもしれませんね(笑)。

麻田 もしかしたらそうかもしれませんね(笑)。当時は〝コッペパン〟なんて言われてましたけど。

粕谷 フォーク、カントリー、ウエスタンって、白人文化ですよね。

麻田 チャーリー・プライドみたいな例外を除けば、ほぼそうです。ジャズ以外の黒人の音楽って、1960年代半ばのメジャーシーンではまだカテゴライズされていなかったから。R&Bとかブルースといったジャンルも、まだみんなポップスでしたね。

粕谷 アメリカのR&Bみたいな音楽って、ブリティッシュロックのミュージシャンが発見したんですよね。B.B.キングがエリック・クラプトンなんかと共演したときに、「彼らのおかげで俺たちはメシが食えるようになった」なんて言ってたけど。

麻田 ですから、ぼくが初めてアメリカに行った1965年のアメリカは、テレビドラマを通して憧れていたそのままの世界でした。『うちのママは世界一』とか『パパ大好き』とかね。

皆さん、アメリカのホームドラマや西部劇の影響を仰いますよね。アメリカの黄金期がそこにあったわけですね。

たった2年後に見た
アメリカの闇

麻田さんは、なんと初の渡米からたった2年後、1967年にもアメリカに行かれてるんですね。


麻田 そうなんですよ。数次(期間内に何回でも渡航できる)のビザをもらったもので、帰ってきてすぐに、もう一度行こうと思ってお金を貯め出したんです。でも結局あまり貯まらなくて、片道切符と500ドルだけ持って行ったんです。

えっ、片道切符が許されたんですか? 

麻田 よく入れたな、と思って。ビザがちゃんとしてたから許されたんでしょうね。でも、たった2年であの変わり方には驚きましたね。67年のアメリカは、完全にヒッピーカルチャーでした。ベトナム戦争も泥沼化していましたから。もうズボンもみんなベルボトムです。

麻田さんも行ったときはアイビーで、帰りはヒッピーみたいな(笑)。

麻田 まさにそうですよ。

粕谷 ただ、麻田さんが初めてアメリカに行った65年には、すでにその予兆はあったんです。ビートニクの文化は若者に支持されていたし、のちにヒッピーの教祖になるような人もいたわけだから。67年になるとそれが目に見えてきて、日本でも「平凡パンチ」に連載されていた五木寛之さんの『青年は荒野をめざす』に影響されて、海外に行っちゃう若者も多かった。

麻田 日本でもちょっといましたよ。新宿の風月堂という喫茶店には、フーテンもたくさんいましたしね。

2回目のアメリカではどんなふうに過ごしたんですか?

麻田 N.Y.では、黒人の家に3ヶ月居候していました。ハーレムだったんですけど、黒人たちには同じ有色人種同士という扱いをされたんで、すごく気楽に過ごせましたね。働いていた日本食レストランの同僚には、早く出た方がいいよって言われたけど(笑)。有名なアポロシアターにも行きましたけど、白人なんてほとんどいなくて、黒人ばかり。ぼくだけが黄色人種でした。中国人は中国人どうしで固まって、黒人とイタリア系は摩擦を起こしている・・・。そんな時代でした。

2年前には存在にすら気付いていなかった、アメリカのリアルをそこで目の当たりにしたわけですね! 当時はサイケデリック・カルチャーも盛んでしたよね?

麻田 ああ、マリファナもありましたから。ぼくもいろんなものやりましたよ。それが普通だったし、全く罪悪感なんてなかった。サイケデリック・カルチャーの中心には、草間彌生さんもいましたよ。

粕谷 彼女は1950年代からアメリカに行って、秋吉敏子さんあたりの面倒をみていたんですよね。その後ナベサダ(渡辺貞夫)さんが渡米したときは、秋吉さんが面倒をみた。そうやってN.Y.のアーティストたちのコミュニティが生まれていった。

麻田 草間さんはN.Y.タイムズに載っていたから、当時からすごく知られてましたよ。ただ、売れてはいなかった。セントラル・パークで全裸になったり、過激なパフォーマンスをやっていたから、同じ日本人からの風当たりは強かったです。「あんなのは日本の恥だ」なんて言う人もいましたね。でも前衛芸術家としては、1960年代においてはオノ・ヨーコさんよりずっと有名でした。

映画『イージー・ライダー』の公開が1969年。まだアメリカは保守的だったし、怖いことも多かったんじゃないですか?

麻田 特に日本人なんて、得体の知れない存在だったでしょうからね。アイダホの田舎にあるナンパという街に泊まったときは、本当に何もない場所なのに、夜になると若者が一斉に車で繰り出して、真っ暗だった街が明るくなる。その光景はすごく印象に残っています。

粕谷 首くくられたってわからないですからね。

1960年代といえば、公民権運動の時代でもありましたよね。

麻田 そうですね。ただぼくが65年に行ったときは、あまり差別の存在を意識することはありませんでした。なぜならそのときぼくが触れ合った白人たちは、生活にゆとりがあったし教育レベルも高かったので、あまり露骨に差別心を出さないんです。ただ、ちょっと南のほうに行くと、やはりすごかったです。ニューメキシコあたりでは、トイレも「ホワイト」と「カラー」に分かれていましたから。しょうがないから友達に聞いたら、「うーん、黄色はホワイトでもいいんじゃないか?」って。トイレのきれいさも全然違うんですよ。

粕谷 ぼくが76年に初めてアメリカに行ったときは、看板だけは残っていましたね。やっぱり悩んだんですが、「あれはもう取り外すからどっちでもいいよ」って言われて。

麻田さんは、歴史的な時代に立ち会っていたんですね。取材なんかが殺到したんじゃないですか?

麻田 いや、そうでもなかったですよ。でも、当時の「平凡パンチ」とか「MEN’S CLUB」とか読んでると、日本人は誰も立ち会っていないはずのアメリカの話がたくさん記事になってるんですよね・・・。あれってどういうことだったんですか(笑)?

粕谷 あの頃の雑誌って、筆力のある編集者やライターが、たとえ行ってなくても、あたかも行ったふうに書くことが多かったみたいですよ(笑)。当時は取材費なんてないから、イエナで洋書を買って。

なるほど(笑)。でも麻田さんは67年に開催された伝説的フェス「ニューポート・フォーク・フェスティバル」に行って、その模様を「MEN’S CLUB」でレポートされているんですよね?

麻田 そうなんですよ。写真も撮ってね。でもあの頃の写真、〝メンクラ〟に捨てられちゃったんですよ。ジョニ・ミッチェルとかレナード・コーエンとかのいい写真がたくさんあったんですけどね。

粕谷 当時はフィルムだから、雑誌の編集部は普通に捨ててたからね(笑)。

あらら〜。確かに、昔の雑誌編集部は、写真の管理はすごく雑でしたね。しかし麻田さんは「POPEYE」や「MEN’S CLUB」よりもずっと早く現地の情報にアクセスしていたんだなあ・・・。でも、そういうファッションにまつわるお仕事はされなかったんですか?

麻田 VANにいた人が独立して、原宿に「クルーズ」(※3)というお店を出したときは、ぼくが現地で買ってきたものをサンプルにして商品化していましたよ。

※3/表参道と明治通りの交差点付近にあったトラッドショップ。

粕谷 えっ、そうなんですか? ぼく、あそこでコードバンのローファーをつくったんですよ。福生の「チャーリー」っていう靴屋につくらせていると言ってたけど。でも、そういう流れから「MADE IN U.S.A. Catalog」が生まれ、1976年に「POPEYE」が創刊した年に「ビームス」も生まれてきたんです。それまでは本当にアメリカの品物なんて手に入らなかった。レッドウイングのブーツとかペンドルトンのシャツなんて、信じられなかったよ。

麻田さんにとっては、そのあたりはそれほど目新しいものではなかった?

麻田 まあ、直接見てましたから(笑)。確か70年代前半にはアメリカの衣料雑貨品店「シアーズ・ローバック」が、池袋西武に出店していたんじゃないですかね?

粕谷 1972年には油井昌由樹(ゆいまさゆき)さん(※4)が「スポーツ・トレイン」という小さいお店を出しましたが、あれも早かったですね。ただ、アウトドアのギアに特化していたので、ファッションの文脈とはまた違ったけど。

※4/1947年生まれ。1971年に世界一周旅行に出かけ、帰国後アウトドアショップ「スポーツトレイン」をオープン。L.L.BEANやエディ・バウアーを日本で初めて扱うなど、キャンプライフの立役者となる。黒澤明の『影武者』『乱』といった作品に出演するなど、俳優としても知られている。

シンガー、俳優、助監督・・・
なんでもやったモラトリアムの時代

麻田さんは、いわゆる学生運動に関わったりしていたんですか?

麻田 いや、ぜんぜんノンポリです。ぼくは60年安保と70年安保の狭間の世代だったんですよ。ホンダあたりに普通に就職するつもりだったから、初めてのアメリカ旅行のすぐ後に、バンドはやめちゃったんです。もう大学3年だし、就職活動しなくちゃって。まあ、部活みたいな感覚だったわけですよ。それで浪人して学年がひとつ下の(マイク)眞木はソロに転向して、66年に『バラが咲いた』を歌うようになる。彼もプロになる気はなかったんじゃないかな。

『バラが咲いた』は日本初のモダンフォークと言われている曲ですが、皆さんがやってきたこととはだいぶ違いますよね? 

粕谷 『バラが咲いた』は、もともと浜口庫之助さんがアメリカ人歌手のジョニー・ティロットソンに歌わせようとしてつくったんですよね。それを眞木さんにテストで歌わせたら、これでいいじゃんってことでリリースされたという。

麻田 他人の曲だし、眞木も最初はすごくイヤだったみたいですよ。だからアルバムには全部自作曲を収録しているんですよね。

渡邊かをるさんもVAN に就職するわけですし、みんなプロになるという感覚はなかったんですね。

麻田 そうなんですよ。それなのに大学の単位も取らずにアメリカに行っちゃってね。さすがに卒業くらいしなきゃと思って帰ってきたけど、あのときにそのままアメリカにいたら、自分の人生はどうなっていたかなって、いつも考えるんです。ただ、ちょうど帰ってきたら学園紛争が起きていて、レポートを出すだけで卒業はできたんですが。

1960年代後半、鎌倉あたりの海の家で撮った写真。
でも就職活動はしていなかったんですよね?

麻田 そうです。暇だったから映画の助監督をやったり、テレビやラジオに出たり、また歌を歌ったり。でもあんまり売れなかったから、ライナーノーツを書いたりもしてました。そんなときに一番手っ取り早い仕事が、キョードー東京の司会兼ツアーマネージャーだったんですよ。

キョードー東京は今もあるプロモーションの会社ですね。外国人タレントを招聘してコンサートをやるという。

麻田 当時は〝ラブ・サウンズ〟というのが流行っていて、ポール・モーリアなんかを招聘して、何十人もするオーケストラでまわってました。ただシンガーソングライターだったら招聘するのもひとりで済むし、お客さんも入ると思って当時の部長にすすめたんですが、「そんなの入るわけねえだろ」って。だったら自分でやるしかない、ということで「トムス・キャビン」を設立して〝呼び屋〟になったわけです。1975年のことでした。

〝呼び屋〟というのは、つまりはプロモーターとか興行師みたいなことですよね?

麻田 そうですね。プロモーター会議という協会のようなものはあったんですが、みんな40〜50代で、いかにも興行師って感じの人たちばかりでした。シンガーソングライターなんて、誰も知らなかった。

昔は日本の興行って、いわゆる裏社会の方々が仕切ってたといいますよね?

麻田 美空ひばりさんには田岡会長がついているような時代でしたよね。でも、いわゆる洋楽に関してはそれほど関係はなかったかな。ライブハウスというものができはじめていたし。まあ、地方はちょっと大変でしたけど(笑)。

後編に続く

本日深夜! BSフジでドキュメンタリー番組が放映!

7月1日の深夜25時〜27時に、BSフジで今回紹介した「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル」の模様が放送されます! カメラを回したのは、「ぼくのおじさん」のインタビューにも登場したことのある、フォトグラファーの井出情児さん! 麻田浩さんも松山猛さんも登場するので、ぜひご覧になってください。

麻田浩

1944年横浜出身。ミュージシャンやラジオパーソナリティ、ツアーマネージャーなどを経て、1976年に「トムス・キャビン」を設立。トム・ウェイツやエルヴィス・コステロ、「トーキング・ヘッズ」など、様々アーティストを招聘する。1980年代以降はSIONや「ピチカート・ファイヴ」から「ロリータ18号」まで、ジャンルに捉われず優れた日本人のアーティストを発掘した。著書に『聴かずに死ねるか! 小さな呼び屋トムス・キャビンの全仕事』(奥和宏氏との共著)がある。

http://toms-cabin.com

https://twitter.com/AsadaTomscabin

粕谷誠一郎

1951年東京出身。POPEYEの定期創刊(1977年3月)から編集部員として参加。独立後は編集プロダクション「CLICK」を設立、ANAの機内誌「翼の王国」の編集長として活躍する。現在は〝失われつつあるフィルム写真の素晴らしさを、新しい形で伝える〟ことを目的に、『Dear Film Project』を仲間と設立。写真集やZINEなど、素敵な紙の本をつくり続けている。

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