2024.9.8.Sun
今日のおじさん語録
「人間は一人では生きることも死ぬこともできない哀れな動物、と私は思う。/高峰秀子」
名品巡礼
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連載/名品巡礼

これぞ日本の
へビューデューティ!
「松野屋」店主
松野弘さんの
〝荒物のススメ〟(前編)

撮影・文/山下英介

シュロのホウキ、竹のハタキ、トタンの収納ケースやパームのトイレブラシ、ブリキのバケツ・・・。神楽坂にある「ぼくのおじさん」の小さなアトリエで使っている掃除や収納道具は、ちょっと昔の日本で普通に使われていた、レトロでいい味出していて、しかも安いモノばかり。これが意外と若いお客さんたちには新鮮みたいで、ずいぶん褒めてもらえるものだから、こっちも嬉しくなっちゃうんだ。実を言うと、これらはみんな谷中にある「松野屋」という雑貨屋さんで買ったモノ。こういうのは民藝品じゃなくて、〝荒物〟と呼ぶらしい。その概念には、もしかしたらぼくたちの生活を豊かにするヒントがあるのかも? そこで「ぼくのおじさん」は、「松野屋」の店主を務める松野弘さんのもとを訪ねた。

70年代カルチャーが
現代の荒物屋を生み出した

初めまして。今日は、いつも愛用させてもらっている〝荒物〟について話を聞かせてください!

松野弘 ああ、いいですよ。でもまずは、ぼくのことから話していいですか? ちょっと長くなるけど(笑)。

「暮らしの道具 松野屋」店主の松野弘さんは、日本橋馬喰町で生まれ育った生粋の下町っ子。ブルーグラスや演芸を愛する趣味人としても有名。
もちろんです!

松野 もともとウチはこのあたりの問屋街で、カバンの現金卸問屋をやっていました。ぼくは1953年の生まれなんですが、ちょうど70年代に勃発した民藝ブームや、石川次郎さんや小林泰彦さんが関わった『MADE in U.S.A.Catalog』に影響された世代なんです。そして柳宗悦の思想や、アメリカのアウトドアグッズの格好よさに憧れたのと同時期くらいに、渋谷で「文化屋雑貨店」がオープンしました(1974年)。創業者の太郎さん(長谷川義太郎さん)は、ウチのような問屋に面白いモノを探しに来ていたんです。ウチでは築地で使う集金カバンや、帆布の学生カバンなんかをよく買ってくれました。彼が見つけた溶接作業用のサングラスを、デザイナーがパリコレに持って行って大ウケしたり、本当に早かったですね。

1970年代前半〜半ばにかけては、民藝に代表されるディスカバージャパン的なムーブメントと、ヒッピー思想の反動から生まれたアメリカのアウトドアカルチャー、そして雑貨に代表されるサブカルチャー・・・。様々なユースカルチャーが日本にドドッと押し寄せてきたけですね。エキサイティングな時代だなあ。
1970 年代のヘビーデューティーブームに強く影響されたという松野さん。のちに渡米したときは、小林泰彦さんが執筆した記事の切り抜きを持って旅したという。写真は当時に購入したL.L.BEANのトートバッグ!

松野 アメ横の「中田商店」なんて近所だから、米軍放出品の魅力も知っていたし、大学生時代から道具の面白さに興味を持っていました。レイモンド・マンゴーの『就職しないで生きるには』という本にも影響されていたのかな。同時に上方の演芸に興味を持ったのがきっかけで、夜行バスに乗って関西に通うようになったんですが、当時の京都が面白くてね。

やっぱり今とはだいぶ違うんですか?

松野 京都って小商いで街ができているんです。デカいものを押し付けない気風があった。喫茶店文化、お風呂屋さん文化、そして今でいうリノベーション文化だって当時から盛んでしたよ。お蔵を改装したライブハウスにもよく行ったし。そして当時はベトナム戦争が終わったばかりだったから、ヒッピー崩れみたいな連中が、世界中から京都に集まっていた。バックパッカーが山ほど来て、焼き物やったり尺八習ったりしてたんだけど、そんな彼らのベースになっていたのが、御所の近くにあった民宿「宇野ハウス」でした。

う、宇野ハウス?

松野 「マニーマニー」「サンキューサンキュー」くらいしか話せない宇野さんっていうおばあちゃんがやっていて、雑魚寝なんだけど一泊700円で泊まれて、しかも外国人は100円引き。『ロンリープラネット』(アメリカで発行されているバックパッカー御用達ガイドブック)には掲載されているのに、なぜか日本のガイドブックには全く載っていなかったんですよ。本当に面白かった。なのでぼくはここをベースに、まだ有名じゃなかった「イノダコーヒ」とか、今出川にあった「ほんやら堂」に通ったりして、楽しんでいたんです。

松野さんが記録した1970年代後半の京都。当たり前だけど、その光景は当時の東京とも、そして現在の京都とも全く違っていた。右写真は「中京青年の家」という施設で、松野さんはここを拠点にする社会人山岳会に入り、本格的な登山を楽しんでいたという。余談だが、奥様と出会ったのもこの時代の京都だったとか!
それはうらやましいなあ。

松野 そんな日々の中でたまたま見付けたのが、「一澤帆布店」です。

かの有名な!

松野 小林泰彦さんはいち早く目をつけていたけれど、当時はまだ全然有名じゃなかった。でもぼくとしてはここの道具袋に、L.L. BEANのトートバッグと重なるようなものを感じて、働かせてもらおうと思って飛び込んだんですよ。

松野さん、「一澤帆布店」で働かれていたんですか!

松野 当時のオヤジさんは本当に面白い方で「お父さんとお母さんが苦労しはって大学まで入れてもらったのに、こんな店に来たらあかんえ」なんて(笑)、前の食堂からオムライスを取ってくれて、土産まで持たせて帰らされました。でも、噺家でもなんでも、弟子入りってそんなもんでしょ? なのでしつこく行くんです。

一回断られただけじゃ諦めない!

松野 まあ、こっちは年中「宇野ハウス」に行ってるしね(笑)。それで最後の手段で、家出してきたから帰る場所がないって言うわけです。そしたら「ウチに今まで大学出たのはひとりもおらんけど、しゃあない。でも入社試験があるからな」って。「試験、なんですか?」「3カ国語喋れんとあかんな」「日本語、当たり前や。英語、そりゃそやな。で、ほかはダメなんか、じゃあ不合格、お帰り」。

あらら、また不合格・・・。

松野 それでこっちは「落語なら喋れます!」と(笑)。「日本語、英語、落語の3カ国語か、じゃあちょっとやってみて」ってことで小噺やって、なんとか潜り込めました。そんな面白いオヤジさんの魅力に20代の青年が惚れ込んで、この人のもとで働きたいと思ったんです。妙心寺の離れの一軒家が2万6000円で借りられたので、そこに住みながら4年間修行しました。あの時代は女性が小物をつくって、男はテントやシートなどの大きいモノを縫っていたんですが、男手が少なかったということもあるんですよね。

エピソードも街の風景も、今の京都とは別世界みたいですね。写真も素敵だなあ。うわ、すごい風貌のおじさんがいる(笑)。
左写真が、古道具屋の鈴木ごいちさん。思わず1970年代の京都に行ってみたくなる、夢のある風貌、そして店構え!

松野 京都での思い出を絶対に残しておこうって、この頃から決めていました。この人は鈴木のゴイチっていう「一澤帆布店」の近くにあった古道具屋さんで、いつもこの格好で商売していました。今でもある喫茶店の「六曜社」や、洋食屋の「プラムクリーク」、桂枝雀の独演会、京都花月、河井寛次郎記念館・・・。本当に楽しかったな。といってもちゃんとミシンは覚えましたよ。当時はKBS京都のラジオに「もらいましょう、あげましょう」というコーナーがあって、番組の中で「右京区のXXさんが中古の50ccバイクを探してます」みたいなアナウンスが流れると、欲しい人から電話がかかってくる、みたいなことをやっていたんですよ。

まさに「ジモティー」のラジオ版ですね(笑)。

松野 京都という街には、1970年代からサステナブルの概念が根付いていたと思います。ぼくもこの番組を利用して工業用ミシンをもらえたので、仕事が終わった後に下宿で練習して、自分でリュックサックをつくれるようになったんです。サレワというブランドのリュックをコピーしたんですが、それを背負って山登りに行きましたよ。

そんな修行で帆布バッグづくりのノウハウを覚えてからは、ひとりでアメリカも旅しました。『MADE in U.S.A.Catalog』に載っているようなアウトドアブランドのお店を見に行ったり、バックパックを背負ってコロラドのボールダーに登ったり、大好きだったブルーグラスミュージシャンのラルフ・スタンレーが出演するブルーグラスフェスティバルに行ったり、ギターを買ったりしましたね。家業だったカバンの卸問屋「松野屋」を継いだのはその後ですよ。1980年代初頭のことだったかな。



京都での修行の後は、ひとりアメリカを旅してブルーグラスのフェスや登山、本場のアウトドアショップなどを尋ね歩いた松野さん。そのルックスは、まさに当時最先端の「ヘビアイ」青年だ! 写真中央は松野さんが自ら縫ったバックパック。

競争嫌いの松野さんが見つけた
〝荒物〟という姫リンゴ

最高の青春時代ですね! もともと家業で扱っていたバッグというのは、どんなものだったんですか?

松野 ビニールの集金カバンや帆布の肩掛け学生カバンみたいな、本当に一般的なバッグを仕入れて、商店街のカバン屋さんに売るような商売でした。でもぼくはオリジナルをやりたかった。それで色々考えたんです。当時はイザックとか吉田カバンとかラガージュとかサザビーみたいな、格好いいデザイナーさんたちがバッグ業界を変える、なんて言われていた時代だったけど、結局みんな、ひとつのリンゴを割ったら同じ場所を一斉に食い争うようなビジネスだったんですよ。かじるところがなくなったら、次の場所を探す。でもぼくは体育会系じゃないんで、競争が苦手なんです(笑)。だったらこっちは同じリンゴじゃなくて、「文化屋雑貨店」が始めた〝雑貨〟という、小さな姫リンゴで十分食べていけるんじゃないかなって。



日本橋馬喰町にある「松野屋」の事務所には、なんと職人さんの作業スペースも。長年帆布のバッグを縫い続けている超ベテランの職人さんが、軽やかにミシンを操っていた。
「松野屋」さんのビジネスは、姫リンゴだったんですね(笑)。

松野 みんなが海外に仕入れに行くんだったら、ウチは日本で山谷のバケツとか、築地で使われている集金カバンを扱うわけです。それからみんなが日本のモノや民藝がいいぞって言い出したら、ウチはクラフトで有名な九州じゃなくて、東北とか佐渡に行く。人がやってるものはなるべくやりたくないし、いつも逆を行くんです。

こうした青春時代の体験や、思考を踏まえての「荒物雑貨」だったんですね!

松野 今さらぼくが『MADE in U.S.A.Catalog』のリンゴを食べようとしても、順番が回ってくる頃にはもう黒くなってるでしょ? 民藝市場だって匠を頂点にした確固たる世界が築かれているから、ぼくが後追いしてもビジネスとしては勝ち目はない。それよりも、自分が足で探し出した荒物雑貨を〝日本のヘビーデューティー〟として提案したほうが、ずっと面白いじゃないですか。そうやってマネせずやってきたからこそ、海外からも注目されているんだと思うしね。

去年はロンドンにおける日本文化の発信拠点「ジャパンハウスLONDON」で荒物展が開催されましたし、ヨーロッパや台湾などのセレクトショップでも大人気のようですね。

松野 「ジャパンハウスLONDON」のトークイベントには80人くらい来てくれて、おへそを出してるような若い子がサステナブルにまつわる質問をしてくれたり、熱気がすごかったですよ。向こうでは荒物に当たる言葉がないので、ARAMONOって呼ばれるんだけど、どうしてこれほど興味を持たれるのかと思ったら、荒物は石油製品じゃなくて、長く使えて、しかも買いやすい。まさに今風の言い方をすると、サステナブルなわけですよね。

ロンドンの中心地ケンジントンストリートにある、日本文化の発信拠点「ジャパンハウスLONDON」では、2023年に「ARAMONO」展が開催。「松野屋」の荒物が展示販売された。松野さんが出席したトークイベントの模様は動画になっているから、チェックしてみよう。

こうした荒物の概念は、もともと東京にあったんですか?

松野 ぼくが子供の頃、浅草橋にも荒物屋があったし、「文化屋雑貨店」の太郎さんも、初期はこれに近いことをやっていたから、ぼくが一番ということはないと思う。でもそれより大切なのは、誰がどんな場所でつくっているのかを自分の目で探し当て、確かめて、現場を知った上でモノを商うということでしょう。いい材料と高い技術を駆使してつくるのは、美術工芸や民藝の分野に任せてね。

松野さんが提唱し始めた頃は、荒物はある意味古臭い存在だったんでしょうか?

松野 ぼくが探し始めた頃はプラスチック製品の全盛期で、日本の地方でつくられていた昔ながらの素敵な荒物と、それを扱う雑貨店との流通のパイプが途切れていたんですよ。だから市場に出回らなくなっていた。荒物って嗜好品ではなく日用品だから、みんながプラスチックのほうを向いたら、簡単にそっちに流れちゃうんですよね。それでぼくは全国を回って、大阪でバケツを100個、蔵前で米ビツを50個、東北でカゴを20個、といった具合に仕入れて、ここで卸売したんです。そうすれば小売店さんはカゴ3つ、ホウキ2つ、という買い方をできて、ひとつの荷物にまとめることができるでしょう?

日本橋馬喰町にある「株式会社松野屋」は、卸売専門店。一般のお客さんは購入不可だ。
そうか、問屋さんの存在によって、荒物の流通が甦ったわけですね。

松野 1980〜90年代って、日本人のライフスタイルが大きく変わった時代じゃないですか。ショッピングモールが地元の商店街をぶっ潰して、日本中がチェーン店で同じモノを食べて、着るというふうに。そんな、みんなが同じ方向を向いてつまんなくなった時代に、ぼくは雑貨の〝雑〟をもう一度仕切り直すという感覚で、全国を歩いて自分の足で集めきった。それが後になって荒物雑貨というジャンルとして確立したと思うんですよ。

こういうものが産地以外で買えるというのは、特別なことだったんですね。

松野 あとは、ぼくにデザインの才能がなかったのもよかった。

というと?

松野 ぼくがやることって、要するにマイナスのデザインなんですよ。たとえばうちの人気商品であるがま口の財布って、もともとはろうけつ染めの牛革を使っていたんですね。でもぼくの場合は、それを無地の牛革にしたり、キンキラキンの口金をニッケルのシルバーにしたり、要素を乗っけるんじゃなくて、逆にマイナスするんです。そうしたらよりシンプルになるし、職人のおばあちゃんだって手間が省けるから、10円でも工賃を下げられるでしょ? そういう細かなアップデートは、才能のなさが逆に武器になりましたね。カバン屋を続けていたら、今頃つぶれてましたよ(笑)。

こちらが「松野屋」の看板商品として知られる牛革のがま口。なんと10色展開!

後編に続く!

暮らしの道具 谷中 松野屋

住所/東京都荒川区西日暮里3-14-14
電話/03-3823-7441
営業時間/11:00〜19:00
休日/火曜日(祝日営業)

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