TOKITOの服は
現代の古着になった!
吉田十紀人と
バブアーの
コラボレート秘話
撮影・文/山下英介
アウターをつくらせたら世界一! 以前「ぼくのおじさん」にも登場してくれたデザイナー、吉田十紀人(よしだときひと)さんのコレクションを、久しぶりに拝める日がやってきた。しかも今や伝説化して古着市場でも高値で取引されている、バブアーとのコラボレーションが復活したというから見逃せない。今回は伊豆の下田にある、吉田さんのセカンドハウスにお邪魔して、そのいきさつを伺ってきた。服づくりの環境が変わりゆく中で、吉田さんが頑なに守り抜いてきたものとは?
なぜ日本人デザイナーが
バブアーを
デザインできたのか?
今回はコラボレーションの復活を機に、改めてバブアーと吉田さんの関係について伺いたいと思います。前回このコラボレートがローンチしたのは2009年だったと思いますが、そのきっかけはなんだったんですか?
吉田十紀人 イタリアのWP(ウーピー)社からのお声がけですね。
恐ろしいほどのつくり込みで世界中の洋服好きを熱狂させた、バブアーとTOKITOのコラボレートライン〝Babour The Beacon Heritage Range Limited by TOKITO〟。写真は吉田さんの私物だ。
WP社とは、ウールリッチやバブアーといったブランドの、イタリアにおける販売権を所有している会社ですね。
吉田 イタリアでは1980年代に第一次バブアーブームが起きたらしいのですが、その仕掛け役もWP社だったようです。そんな会社のクリエイティブディレクターだったアンドレアさんという方が、当時私が手掛けていたTOKITO 360というブランドのアウターを見て、声をかけてくれたんです。最初はTOKITO360のデザインをまんまバブアーに落とし込みたいという話でしたが、その後の話し合いで、ニュアンスを残した新しいデザインを提供するこことに合意しました。それで2009年に始まったのが〝Babour The Beacon Heritage Range Limited by TOKITO〟です。
お〜、いきなり全権委任!
吉田 それでファーストサンプルをチェックするために英国のニューカッスルにあるバブアー本社に呼ばれたんですが、先方はすごく気に入ってくれたようで「TOKITO」って名前入れていい?と聞かれたんです。こっちとしては願ったり叶ったりですよね。だって英国王室御用達ブランドなんですから。
そのときWPの担当者は、本社の人に「絶対に変えるなよ!」と何度も念押ししていたことを覚えています。たぶんそういう癖があるんだろうね(笑)。それでこちらは後に苦しめられることになるんですが・・・。ともあれ当時一番影響力のあるファッションブロガーだった、ACLのマイケルさんが褒めてくれたことも手伝って、マーケットでも評判はよかったですね。
苦しめられたとは?
吉田 最初はWP社との契約だったんですが、1年後にはバブアーとの契約に切り替わったんです。こちらは先方の事情もわからないし、どちらでもよかったですからね。ただ、今から思えばあそこで反対していれば、もっとWP社のチームといい関係が築けたと思うんですよね。本当に気持ちのいい会社だったから。
英国サイドからは途中からおかしな要求がたくさん寄せられて、しまいには勝手に生地を乗せ替えたりするものだから、頭にきちゃってね(笑)。それでいったん終了したんです。向こうはあくまでファクトリーだから、デザインに対する理解はあまりなかったんですよ。
ファッション業界の慣習はわかりませんが、それってある意味では、吉田さんがつくるバブアーがビジネスになったということですよね?
吉田 タイミングもよかったんでしょうね。私がつくるコートをハロッズが止め型にしてくれって言ってきたくらいだから、売れていたんだと思います。映画『007 スカイフォール』(2012年)では、タイアップも出していないのにジェームズ・ボンドがぼくのアウターを数十分にわたって着てくれたしね。
あんな服はほかにないから、外国人にとっても新鮮だったと思います。
吉田十紀人が
バブアーに
持ち込んだもの
吉田 デザインに目が行きがちですが、実は私がバブアーでやった一番大きなことって、細腹(さいばら)を入れたことなんですよ。
右が通常のバブアーで、左が吉田さんのデザイン。細腹の存在が、吉田さんのジャケットにテーラードクロージングのような風格を与えている。
サイバラ? ああ、ジャケットの脇の下に入っているパネルのことですね。
吉田 そう。ジャケットを立体的にするためのパーツです。バブアーは当然ワークウエアがルーツだから、当然脇は一直線に縫われている。そこに細腹を入れれば作業工程が大きく変わってくるから、極めて非効率的なんですよ。
確かにファクトリーとしては面倒でしょうね。
吉田 従来のワークウエアではありえないことだったけれど、それを啓蒙しながら取り入れたことで、BARBOUR×TOKITOはもう一段階上にいけたという自負はしています。なにせこっちは、バブアーとは憧れでしか向き合っていなかったわけだから、イノセントだったんですよ(笑)。
やっぱりバブアーへの憧れがあったわけですね。
吉田 もともとバブアーへのリスペクトとしてTOKITO360は生まれていますから。実は湾岸戦争のとき(1990年)、英国の貴族がバブアーにミリタリージャケットをスペシャルオーダーしているんですが、それが本当に格好よくて。
そんなモデルがあったとは知りませんでした!
デザイナー、
吉田十紀人は
こうして生まれた
松山猛さんとの対談でもお伺いしたのですが、吉田さんのそうしたテーラリングやものづくりに対するこだわりは、どこで養われたんですか?
吉田 以前「ハロルズギア」までのことはお話ししたと思いますが、テーラリングに関しては1980年代後半に手がけた「ブレイズ・オブ・サヴィルロウ」というブランドでの経験が大きかったですね。ポールセン・スコーンの靴やブリッグの傘などの一流の洋品と、私がデザインしたスーツを一緒に並べるような、スーツを基軸としたショップでありブランドでした。実はブレイズ・オブ・サヴィルロウは、今はなきスコット商会の子会社として、ロンドンのそごうでイージーオーダーのお店を展開していたんです。私はそのテコ入れ要員として参画したという次第です。
バブル真っ盛りの1980年代後半に、吉田さんをデザイナーに迎え始まった「ブレイズ・オブ・サヴィルロウ」。当時人気だったイタリアンファッションへのアンチテーゼとして、〝ハイスタンダード〟をテーマに掲げた。
まあ、結局は2年でけんか別れしちゃったんですが(笑)、あそこでサヴィル・ロウの仕立てや一流の生地を学べたのはのちの財産になりました。TOKITOを始めたのはその後(1997年)ですが、それからはカジュアルウエアを縫うときでも、極力ロックミシンを使わせませんでしたから。
確かにTOKITOの服は、当時の日本のブランドの中では仕立ての良さが群を抜いていました。
吉田 テーラードだけじゃなくて、カジュアルでも接着芯をほとんど使わず、フラシ毛芯にこだわっていましたからね。そういうことばかりやってるから縫ってくれる工場がなくなるんだけど(笑)、高級品を縫う上では最低限守らなくちゃいけないものがあると思うんです。
〝20歳未満禁止〟を謳った大人のブランド、TOKITO。ブリティッシュをベースにしつつも大人の遊び心と色気を漂わせたTOKITOのテーラリングは、世界でも比類のない存在だ。ちなみにコットンに製品洗いを施したこちらのジャケットは、2000年代前半当時「パーティからの朝帰り」と命名されていた。そのココロは、プールやバスタブに浸かって、びしょ濡れのままの朝帰り、というわけだ。
ブレイズ・オブ・サヴィルロウでは、その後の私の仕事を支えてくれた荒山好之(あらやまよしゆき)というパタンナーに出会えたことも大きかったです。彼がいたからこそTOKITOというブランドが生まれたようなものですから。
そういえば、ブレイズ・オブ・サヴィルロウとTOKITOの間はどのような活動をされていたんですか?
吉田 マルイの『Voi』(※)という通販雑誌を手がけて死ぬほど働いて、それでプールした資金で、1997年からTOKITOを始めたんですよ。
※1990年代に最盛期を迎えた、マルイの通販カタログ。いっときはコンビニでも販売していた。
なんと、そこで編集者に復帰されるんですね!
吉田 ぼくは食うに困ると紙をやるんです(笑)。でも、編集者時代の経験は洋服づくりにも活かされたと思いますよ。ぼくの服には編集者が喜ぶような蘊蓄がいっぱい詰まっているから。「原稿が書きやすい服」なんです。
それは編集者としては嬉しいですね(笑)。でも、最近は編集者が洋服をつくることも多いですが、情報が多すぎるからか、コピーとまではいかなくても、いいとこ取りの発想に陥りがちな気もするんです。それに対して吉田さんのものづくりからは、そうした安易さは全く感じさせません。
吉田 ぼくだって過去の色んな要素を組み合わせて編集していますが、解釈がオリジナルなのかもしれませんね。たとえばテーラードジャケットを着て自転車に乗るとしたら、もっと乗りやすくするためにはどうするか?ということを深く考察します。そして、そのアイデアをパタンナーの荒山に投げたら、彼はキャッチャーとして受け止めて、喜んでやってくれた。彼が若くして亡くなったことがとても残念です。
今だから言える
海外進出秘話
吉田さんのすごいところは、特に海外でショーを開催したり、ピッティウオモなどの展示会に出展したわけでもないのに、海外で有名になっちゃったことなんですよね。やっぱりそれはプロダクトに力があるんだと思います!
吉田 今だから言えることなんですが、それにはきっかけがあるんですよ。20年ほど前の展示会で、とあるイタリアのファクトリーブランドの副社長が、私のコート(TOKITO360)を気に入ってくれたんです。それで一着送ってあげたら、しばらくしてそれと全く同じものが・・・(笑)。
ああ、コピーされちゃったんですね(笑)。
吉田 まあ、ファクトリーだから(笑)。それで文句を言ったらその副社長が高級レストランでお詫びをしてくれて、ベネチアグラスか何かを持って「これでなんとか・・・」とか言うもんだからね。こっちも多少は山っ気があるから「コピーするくらいいいと思ってるんなら、一回向こうで売ってくださいよ」と持ちかけたんです。結局は1シーズンで終わってしまったんですが、まあまあ売れて色んなセレクトショップに置かれていたんですよ。
そこで海外のファンに広まり、バブアーに繋がったと!
吉田 ただ、当時からぼくがつくる服は、イタリアやイギリスでは生産できないと言われていたんです。そこを頑張ってくれた当時のバブアーにはやっぱり感謝していますよ。そういう意味ではバブアーに対してはいい記憶も悪い記憶も(笑)あるんですが、10年以上ぶりに声をかけてもらったときには、本当に嬉しかったですね。
激変した
ものづくり環境の中で
こちらはまだ未発売のサンプル。ハンティングジャケットがベースになっている。
その完成度は、いまだに世界中の洋服好きの間でファンの語り草になっていますからね!
吉田 今回は、基本的には純粋に昔のアーカイブを復刻させるというオファーだったのですが、それが一番嬉しかったなあ。実は2000年頃に受けたインタビューで、「あなたにとっての21世紀の服ってなんですか?」って聞かれたんですが、私はそのとき「ぼくの服こそは21世紀の古着です」って答えたんです。自分がかつてつくった服が復刻を望まれるようになるなんて、まさにその夢が叶ったわけだから。
吉田さんの服は古着市場でも高値で取引されていますからね。
吉田 ただ、やはり英国での生産体制はずいぶん変わっていて、苦労しましたね。なので今回はサンプルを日本でつくって、英国に送るやり方にしました。
やっぱりTOKITOの服は縫うのが難しいんですね。
吉田 昔から私の服って、「へんちくりんなものだけ持って来い!」みたいな工場のオヤジたちに支えられてきたんですよ。ただ、今はそれに縫い場の職人さんたちがついていけるかどうか。そういう意味では、このコラボレートが自分にとってはいい潮時になったかな、なんて思っています。
え〜っ、それはもったいないですよ! まだTOKITOの服に熱狂するマニアは多いですよ!
吉田 こういう服を縫える工場が本当になくなっちゃったんですよね。ゼロではないと思いますが。私のまわりのデザイナーも、半ば諦めている人が多いですよ。
確かに、生地やデザインに凝った服は、本当に高くなりましたものね。特にイギリス製なんて、とても手がでない。
吉田 マニアのものになってしまいましたよね。ただ、今回私が手掛けたバブアーは、意外と安く抑えていると思いましたが。
今の世の中を鑑みると、安くさえ感じてしまいますね。
吉田 それでも、今まで自分がやってきたような、リアルクローズの中でのさりげない主張や、繊細なディテールを実現するのは、現代の社会背景や生産環境を考えると、ちょっと難しくなってきたな、とは思ったんです。私が生まれ育ってきた時代は本当に自由だったから、そんなふうに思ってしまうんだろうけど。もうこれから来るべき時代の仮説すら立てられません(笑)。ただ、いわゆるプロユースの作業服やユニバーサルデザインには興味はあるし、機会があれば挑戦したいとは思っていますけどね。
それは面白そうですね!
吉田 数年前に私の師匠である菊池武夫さんが「空調服」をつくったじゃないですか。あれにはやられたな、と思って。この分野は絶対にひとりじゃできないから、私のようなデザイナーに話が来るとも思えないけど、それでも言ってれば、いつかはね(笑)。
絶対に来ると思いますよ! まだまだ世の中にはTOKITOの服が必要です!
吉田 あまり偉そうなことも言えないけど、自分の服は「長く着れば着るほどいい服になる」ということだけは、ポリシーを通せてきたかな、とは思っています。それが大嫌いな言葉だけど、SDGSの根幹じゃない? ふざけた話で、世の中は全くそうはなっていないけど。
現代のスケールビジネスとは相入れないですけどね。
吉田 そうだね。でもぼく、アンチ資本主義なんですよ(笑)。
最後に見せます!
吉田十紀人の
アーカイブコレクション
ハリスツイードとパラシュートボタンが目を惹くミリタリージャケット。ニードルパンチという剣山のような装置を使用する技術で、ツイードとウールジャージーを抱き合わせることで、往年のハリスツイードらしいヘビーウェイト感を再現している。
TOKITOの手にかかれば、カジュアルなミリタリージャケットにも、まるで仕立て服のような色気が宿る。
モードなデザイナーズともクラシックなテーラーとも違う、TOKITO流のテーラリングを象徴するひとつボタンのタキシードジャケット。構築的な毛芯仕立てで着丈は長め。全く媚びたところのない辛口なジャケットは、当時のファッション界では異彩を放っていた。
こちらはバブアー×TOKITOのアーカイブだが、ハロッズ限定で販売されたため、日本では展開されなかった幻のモデル。ミリタリーやモーターサイクル由来のデザインは、TOKITOの真骨頂。ディテールに凝りまくっても子供っぽく見えないのが、吉田さんがつくる服の魅力なのだ。
こちらもバブアー×TOKITOのアーカイブ。立体的な裁断による着やすさ、動きやすさも吉田さんがつくる服の特徴だ。
1955年東京都出身。メンズビギのデザイナーを経て、雑誌『POPEYE』『BRUTUS』などで、編集者・スタイリストとして活動。その後バイカーズウエアブランドのハロルズギアや英国発ブランドのブレイズ・オブ・サヴィルロウなどを手がけ、1997年には自身の名を冠したブランドTOKITOを設立。2009年から2013年まで続いたバブアーとのコラボレートライン〝バブアー・ザ・ビーコン・ヘリテージ・リミテッド・バイ・トキト〟のデザインや、ウールリッチへのデザイン提供を経て、世界的に知られるようになる。現在は下田と東京を行き来しつつ、マイペースでデザイン活動を行う。