ありふれた自分探しの旅、
または
ぼくの済州島日記
撮影・文/高原健太郎
ぼくたちの視点を通して世の中を考える、新しい連載がスタート。記念すべき第一回目を飾るのは、ついこの間のパパスの特集で、モデルとして登場してくれた21歳のクリエイター、高原健太郎。国際色豊かなインディペンデントマガジン『MCNAI MAGAZINE』をはじめ、様々な分野で活躍をはじめた彼のルーツは、韓国の済州島にあった。彼がこの夏体験した、自身のルーツをめぐる旅を、ぜひみんなと共有したい。
ぼくの歩むべき道を探して
「健太郎、そんなに日本に住むのが嫌なら韓国帰るか?」
父からの唐突の一言に一瞬フリーズするぼく、たしかそれは中一の夏の終わりだったような。
当時、いわゆる反抗期だったぼくは母親との口論の末、出張先の父の家へ飛び出した。
そこで告げられた父親の韓国人宣言、もはや親子喧嘩などの騒ぎではない。日本人として平々凡々と育ってきた12歳にとってその発言は予想だにしなかった。
最初は動揺したものの(当時は今よりも韓国に対する国内の風当たりは強かったように感じる)徐々に日韓ハーフという現実を受け入れていったその日から月日は流れ2022年夏。
おっと、本題に入る前に簡単に自己紹介をしておこうと思う。ぼくの名前は高原健太郎 21歳。『ぼくのおじさん』で連載もされている赤峰幸生先生を3年程前から師事し、山下さん(※『ぼくのおじさん』の編集人)とはそのご縁でお付き合いがある。
赤峰先生の絶対に明かさない装いの極意や裏話等の方が皆さんは興味がお有りだろうがそれは遠い未来に機会を預けるとして、今回はおこがましくもぼくの身の上話についてつらつら綴ろうと思う。
大学へ行っていれば新卒の年齢になる誕生日を控えながら、高校卒業後、身体一つで東京へ乗り出してきたぼくは漠然とした未来に不安を抱えていた。多分似たような悩みを抱えてる同世代も多いんじゃないだろうか。
何も別に体たらくに生きてきたつもりはない。ただ、歩むべき道が見つかっていないだけだった。渡韓を思い立ったのはそのときだった。思い返してみれば自分の身体に半分流れている血についてぼくは何も知らないじゃないか。そういった意味では、よくある自分探しの旅そのものだ。父は今年で77歳になる。彼が育った街、見てきた景色について直接話を聞く時間はそう多くはないかもしれない、そのことがぼくの渡韓を急がせた。思い立ったその日にフライトを予約し、大使館でビザを取った。現在はビザの申請なしで渡航可能らしい。
Day1
特に大きなトラブルも無く、無事仁川空港に到着。出迎えてくれたのは漫画のプロポーズシーンさながらの花束を抱えた初めて会う親戚だった。聞き取れた単語は하라보지くらいだったが、心の底から父との再会を祝福しているのが伝わってきた。韓国人の特徴なのかぼくの親戚だけなのか、とにかくリアクションが大きい。それにしても父親が流暢に韓国語を話している姿というのはどうも違和感がある。日本に移住して60年以上経つ父でもやはり母語を話すその表情はリラックスして見えた。
蛇足だが、父が話す言葉は済州語といって本島の人の話す韓国語とは違うらしい。非常に深刻な危機に瀕した言語に分類されており、日本国内だとアイヌ語がその分類に相当する。通りで文法書と父の説明が違う訳だ。
そんなこんなで父の故郷へ向かうべく、足早にPCR検査を受け済州島へのフライトに乗り継いだ。空港近くの検査所は値段が高いが、ソウル市内の一部の検査所だと外国人は無料で受けられるらしく到着後ソウル向かう方にはそちらをおすすめする。
その日はすでに夜遅く親戚と夕飯を囲んですぐに就寝した。
Day2
早速先祖への挨拶ということで墓参りへ向かう。済州島は漢拏山(ハルラサン)という火山が噴火してできた火山島であり、漢拏山は韓国で最も標高の高い山である。墓はその山の中腹にあるらしい。
昨今の日本は墓参りの風習そのものが消え去りつつあるが、韓国は儒教の教えが強くかなり優先度の高い行事なようだ。
この墓参りがハードだった。まず正規の道がない。私の親戚の一部はアメリカ帰りの韓国系アメリカ人なのだが今回父のためにわざわざボストンからジープを持って帰ってきたらしい。
傷なんてお構いなしに道なき道を進む親戚のおじさん。やはりこういった車は表参道の並木通りよりも荒道が似合うというと少々毒が強いだろうか。
父の家系は代々根っからの済州島人である。ちなみに済州島には三姓穴(サムソンヒョル)神話という信じられないくらい土着な神話がある。あまりにも無理がある設定なので文字に起こすこっちが恥ずかしいくらいなのだが、簡潔にまとめると元来無人島であった済州島に突如、良乙那(ヤンウルナ)、高乙那(コウラ)、夫乙那(プウラ)という三人の神人が空から現れ東国の碧浪国(へきろうこく/おそらく日本)から三人の美女をめとり耽羅(タムナ)王国を建国したというとんでも話で、父の苗字の高は高乙那からきていると語るのだ。
それについて、親戚曰く、済州島は飲み水を汲めるほどの大きな川が一切存在しないため(火山島なので岩に穴が多く雨水が貯まらない)島民の数も少なく、国力、文明共に貧弱であったと。実際済州島の国家が独立国として成り立っていたのはほんの数百年で、12世紀以後は高麗やモンゴルなどに編入されている。この暗い歴史の下で、島民の尊厳を維持するためにそう言った神話が自然発生的に生まれたのだろうと話してくれた。うん、絶対に日本で過ごしていたら知らなかったであろう話だ。
Day3〜7
ここから時系列が朧げなのでランダムに済州島の文化について紹介しようと思う。
まず食材で有名なものは黒豚と太刀魚だ。
鉄板で焼いた黒豚を太刀魚を発酵させた独特の辛さのあるソースにつけて食べるのだがこれが案外美味しい。僕は基本食事前に料理の写真は撮らない主義なのでお見せできないのが悔やまれる。
また、済州島独自のものとして海鮮のキムチが挙げられる。異常なまでに塩辛いため僕は食べることができなかったが聞くとソウルの人でも好きな人は限られるらしい。
それにしても韓国の人はよく食べる。日本も飲食店は多いように感じるが韓国はそれ以上だし、驚いたのは一人で外食をする習慣がないことだ。食事とは友人や家族と食卓を囲むという感覚が強く、実際ソウルで一人で食堂に入ろうとすると断られた。最近ではそれを逆手にとり、お一人様専用のレストランが増えつつあるらしい。
家は平屋が多く、韓屋(ハノク)と呼ばれる昔ながらの家がまだまだ残っていて面白い。
少しだけ韓国の民族服についても触れようと思う。これはカルオッ(갈옷)と呼ばれる民族服だ。柿渋で染められた生地は洗いをかけるごとに風合いが増す。青柿に含まれるタンニン成分が日光に反応することでこの色になるらしい。20世紀初期まで一般的に家庭内で着られていたらしく、雰囲気はどことなくチャイナジャケットにも似ている。話は横道に逸れるが、ぼくは洋服という言葉に抵抗がある。服(FUKU)という発音しにくい単語も起因しているのだろうが、そろそろ洋の字を取っ払ったらどうだろうか。
Day8〜10
ここからは一旦家族と離れ、一人でソウルに移動。ちなみにソウル周辺は比較的英語が通じるが、済州島や少し離れた田舎では一切英語は通じないと思った方が良い。
主に美術館周りで時間が潰れたが美術館よりも印象的だったのがソウル風物市場と踏十里(タプシムニ)古美術通りだ。古い物では200年以上前の小道具や陶磁器、民藝がところ狭しと並んでいる。踏十里古美術通りは古物専門の骨董通りで、ソウル風物市場は骨董品からブランドの模造品や何に使うかわからないケーブルなど有象無象といった印象だ。日本人だとバレると高めの値段をふっかけられるので韓国人の友人を連れて行くか韓国語をマスターするのが良いだろう。
陶磁器や伝統文化に興味がある方にはソウル工芸博物館は見応えがあるだろう。丁度ぼくが行ったタイミングではLOEWE FOUNDATION CRAFT PRIZEが開催されていた。LOEWEのクリエイティブディレクター、ジョナサン ウィリアム アンダーソンの意向で2016年から始まったこの賞は優れた美的価値のある作品を生み出す能力を持つ国際的なアルチザンの発掘と支援を目的としている。彼は伝統工芸に大きな関心があるようで、昨年文化服装学院の学生を対象に行われたトークショーでも濱田庄司について言及している。(Youtubeにて視聴可)
受賞者はドイツ人と韓国人が多い印象。特にセラミックに対する国からの支援は日本よりも韓国の方が手厚いように感じた。
Day11〜12
今若者の街は明洞ではなく弘大(ホンデ)と梨泰院のようだ。明洞はコロナの影響か空きテナントが目立っていた。弘大は乱暴な言い方をすると下北沢と原宿を足して大きくしたような感じだ。大通りは道幅がかなり広いので日本とは若干雰囲気が違う。1990〜2000年代前後の古着を扱うお店が多く、若者の服装も多種多様だ。写真がないのが残念だが、男女ともに日本よりも体にフィットしたサイズ感の人が多いように感じた。
おしゃれな男性の腕周りには大体タトゥーが入っている点も日本と異なる。現地で仲良くなった韓国人の友達曰く、流行の物を嫌う若者のことを弘大Disease(弘大病)というらしい。多分僕は重症だ。
梨泰院は夜遅くまで空いている飲み屋やクラブが多く(梨泰院で一番ホットなクラブSoap Seoulは現在クローズしているが、テクノが好きならFaustは有名)、弘大よりも国際色が強い。Netflixドラマ「梨泰院クラス」は話のきっかけになるので弘大Diseaseの貴方も一通り予習していくことをおすすめする。
旅を終えて
本当に悩んでいたのかというくらい気づいたら韓国を満喫していた。
違う環境、違う価値観に触れることで自分の考え方がすごくクリアになった気がする。
Let your heart be comfortable with your surroundings. If it’s not, you should change something , but don’t be in a rush.
親戚のおじさんに言われたこの言葉が頭の中にずっと留まっている。
今は韓国語で会話ができるように現在勉強に励んでいるところだ。
『MCNAI magazine』メンバー、フォトグラファー。神戸市出身の21歳。
@kentaro_takahara