2024.12.21.Sat
今日のおじさん語録
「なんのために生まれて来たのだろう。そんなことを詮索するほど人間は偉くない。/杉浦日向子」
時計芸術研究所
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連載/時計芸術研究所

高倉健さんと
ロレックスの思い出

文/松山猛

時計好きはもちろん、そうでない人も絶対にご存知であろう、ロレックスというブランド。近年は究極のステイタスシンボルとしての側面ばかりが語られがちなこの時計にも、あまり知られていないときがあったのだ。そしてもちろん我らが松山猛さんは、そんな時代からロレックスの魅力に惚れ込んで、そのブレイクに一役買っている! 今回はロレックス好きで知られた名優、高倉健さんにまつわるエピソードとともに、誰もが知ってるこのブランドの、知られざる歴史を綴ってもらった。

健さんと探した
古いロレックス

1980年代の半ば頃だった。

当時ロレックス・ジャパンの技術部長だった佐藤さんから電話があった。

「実は高倉健さんが、松山さんはヴィンテージ時計について詳しいようだから、古いロレックスを一緒に探しに行ってもらえないかと仰っているのです」と。

天下の大俳優高倉さんが、そんなことを言っておられるとは。もちろん何の異存もないので喜んで案内しますよと伝えると、それからしばらくして、実際にご一緒することになった。

約束の日の朝、ぼくが当時暮らしていた外苑ハウスという共同住宅の前で待っていると、三菱ギャランという車がやってきた。

高倉さんは普段メルセデス・ベンツに乗っているのを知っていたので、ギャランに乗ってこられたのが意外だったが、そのころ彼はギャランのコマーシャル・フィルムに出演されていたからか、ぼくとのヴィンテージ時計探しに出かけるのに、わざわざ乗ってこられたようで、なんとも義理堅い人だった。

佐藤さんが後部座席に移られたので、ぼくは助手席に乗り込み、初対面のあいさつをし、様々な話をしながら代官山にある、ヴィンテージ時計の店に向かったのだった。

高倉さんは時計が好きな人だと聞いていた。そしてお世話になった人たちには、裏蓋に「○○様、高倉健より」とエングレーブしたロレックスをプレゼントするということも。実際に健さんから時計をいただいた人から、誇らしげにその時計を見せてもらったこともあるが、あの当時のスターたちは、そのようなプレゼントを、気前よくしていたようだ。

最近吉祥寺の「江口時計店」に持ち込まれた古いロレックス。〝to K.MATSUDA from KEN TAKAKURA 1981〟とエングレーブされている。この時計が実際に高倉健さんのものだったのか? そしてK.MATSUDAとは誰なのか? 今のところ詳細は不明だ。 ©️江口時計店

代官山では豊田茂雄さんが営む「ロイド・アンティーク」などに行き、古いロレックスをはじめとするヴィンテージ時計を見せてもらった。その日高倉さんは古い時計を買うことはなかったが、系列店の「ロイド・クロージング」で、スコットランドメイドのセーターを気に入り、サイズ違いで何枚か買われたことを思い出す。きっとそのセーターは、お世話になった人々にプレゼントされたのだろう。

ぼくは健さんに「こんな映画が実現されたらよいのですが」と、久生十蘭という作家の小説で、フランスを舞台にした作品『十字街』などについて語ったものだった。高倉さんは、そんな話を嫌がりもせずに聞いてくださった。

その古時計探しの日のことを、のちに高倉さんはご自身のエッセイ『あなたに褒められたくて』の中に書いてくださったのだ。いや、本当に義理堅い人だったのである。彼はぼくが書いた雑誌の原稿などもよく読んでくださっていたようで、ブレゲの再興に力を注がれたフランソワ・ボデさんという方が創設した時計ブランド、ジャケ・ドローにも興味を持ち、その新作発表会にも顔を出されたと聞いた。大スターゆえに、会場がいったん閉まった後に、いわゆるお忍びという形での来場だったらしい。

クオーツ全盛期においても
機械式時計を貫いた
ロレックスというブランド

左からロレックスのトリプルカレンダー、ブレゲのトリプルカレンダー、ユニバーサルのクロノグラフ。すべて1950年代ものだ。©️三浦順光

そんな、健さんも愛したロレックスという時計にぼくが興味を持ったのは、1970年代の半ば頃のことだった。それは日本発のクオーツ時計の出現により、時計の技術史が塗り替えられた時代であり、機械式時計にはもう未来はないと、時計業界が考えるようになった時代でもあった。

それに対してぼくは、人間の英知の塊であり、精密工業の最先端にあったはずの機械式時計製造の技術が失われてしまうのではないか、という危機感を抱いたのだった。

その当時多くのスイス時計会社も、クオーツ時計の製造に舵を切り始めていたが、ロレックスなどの少数派の会社は、それでも機械式時計製造にまだ力を入れていたことに興味を惹かれたのだ。

今では大ブームになっているロレックスやパテック・フィリップ、オーデマ・ピゲ、ヴァシュロン・コンスタンタンの時計だが、その頃はまだまだ知る人ぞ知る、という感じだったものだ。

ロレックスのオイスターシリーズの時計は、1920年代に開発された頃から、オイスター・ケースの防水防塵性能の高さで有名になった。創業者のハンス・ウイスドルフという人は、大変着眼点のよい人物で、創業当初は普遍的なポケットウォッチなどをつくっていたが、オイスター・ウオッチ・カンパニーという会社が防水ケースを開発すると、その会社を吸収合併し、腕時計時代にふさわしいケースの時計として売り出したのだった。

1926年には、その防水腕時計を、メルセデス・グライツという女性スイマーが腕に着け、ドーバー海峡を泳いで横断するという快挙を打ち立て、それを新聞や雑誌の広告として大アピールを始めた。

オイスターの名のとおり牡蠣殻のようにしっかりと密閉する、ねじ込み式のベゼルと裏蓋を持ち、潜水艦のハッチのように、スクリューダウン方式の竜頭によって、水や埃の侵入を防ぐという、その極めて丈夫なケースの時計は、当時としては画期的な防水腕時計となったのだ。

また高性能なムーブメント製造で評価が高かったアルピナ・グリュエンという会社もグループに招き入れ、そのムーブメントを使ってつくられた〝プリンス〟というシリーズも、洗練された角形のデザインによって人気を得た。このプリンスシリーズは、製造本数が少ないせいか、今日、コレクターアイテムとして、かなり高価な価格で取引されるようになった名機である。

1930年代に人気を集めたロレックスの角形時計〝プリンス〟。右の「レイルウェイ」は、レギュレーター表示とジャンピングアワーを備えた珍しいもの。©️三浦順光

それでも1970年代の初めごろまで、日本ではロレックスの認知度は低く、銀座の専門店でも月に数本しか売り上げがなかったと、当時からロレックスを扱っていた輸入時計問屋の社長から聞いたことがあった。

日本でヴィンテージ時計のブームが起きたのは70年代も半ば過ぎのことであり、それにはぼくも力を貸したと自負している。

ヴィンテージウォッチの
黎明期に手に入れた
8つのロレックス

1976年頃、初期のPOPEYE誌に、ヴィンテージ時計の見開き記事をぼくが書いたこともきっかけになり、古い腕時計を見直す若い人が増えたのだった。75年頃は ウォッチサファリと称して、あちこちの時計店を訪ねては古い時計はありませんかと聞き歩き、時には掘り出し物に出会うこともあった。

昭和56年、1981年に出版したぼくの2冊目のエッセイ集『都市探検家の雑記帳』(文春文庫)にも、当時のロレックスに対する情熱を込めた文章を書いている。今それを読み返すと、その時点でぼくは8ピースのロレックスを持っていたようだ。

東京の各地の時計店で見つけたそれぞれのロレックスは、いずれも魅力のあるものだったが、お世話になった友人に進呈したり、子供が生まれた友達にプレゼントしたり、息子にあげたりして、今は3ピースだけが手元に残っている。

そのうちの一本は、趣味の世界の先輩であり大親友だった、アートディレクターの渡辺かをるさんから、結婚の祝いにいただいた、かなり古い9Kゴールドのオイスターだ。

渡辺さんは伝説のフォークグループMFQのメンバーとして、またファッション界にアイビー旋風を巻き起こしたVANの広告部のデザイナーとして有名だった人で、骨董品や時計に対する趣味の世界でも深い知識を持っていた人だった。その時計はクッションケースと呼ばれるスタイルのケースに、丸い文字盤を組み合わせたもので、まだ王冠のマークはないが、ROLEXのロゴが文字盤にあるものだ。この時計には昔ながらの豚の革のベルトを着けている。

同じく1920年代に製造されたと思われる、もうもうひとつのオイスターは、ロンドン取材をしているときに、シティーと呼ばれる金融街の一角の小さな時計と銀器を扱う店で見つけたもので、およそ3万5千円程度で手に入れることができた。これには王冠マークとロゴが入っているから、1930年代のものかと思われた。

そんな素晴らしいモノと出会うときは、モノの方からも何かしらのアピールをしてくる。あなたのところに連れて行ってほしいよ、と語りかけているようにも思えるのだ。

こんな出来事もあった。かつて原宿にあったコーヒーショップ、レオンで知り合った友人からの情報で、神田にある宝飾店を知ったのだが、そこには大きなお菓子の金属缶にごっそりと入れられた腕時計の山があった。その中からめぼしい時計を探していくと、なんと1940年代もののロレックス・オイスターが出てきたのだ。〝バブルバック〟といって、膨らんだ裏蓋を持つその時計は、黒文字盤がとても素敵に思えた。そしてそのお値段はなんとたったの一万円。今では信じられない安さだったのだ。

この時計は長らく日常に使っていたが、数年前にとうとう油切れして止まってしまったので、信頼できる時計修理店「テクノスイス」で直してもらっているが、オーバーホールに加え、竜頭のねじ込みの部品が摩耗してしまったので、それをつくってもらわねばならず、およそ10万円近くの修理となりそうだ。1万円で手に入れた時計の修理に十倍の費用をかけて直すわけだが、この時計の相場は少なくとも50万円ほどになるらしいから、仕方がないと思っている。

時計史に燦然と輝くロレックスのオイスターケース。左は1927年頃のオクタゴンケース。中央は1940年代のオイスター・バブルバック。右は1960年代のオイスター。©️三浦順光

1980年代には、このバブルバック時代のロレックス・オイスターの人気が過熱した。この当時(1940年代)のロレックスはケースの直径もやや小さくて、平均的な日本人の腕によくマッチするとぼくは思う。ステンレスのものや、ベゼルと竜頭のみがゴールドのもの、そしてケースもゴールドのものなど、様々なバリエーションのものがつくられていた。特に人気だったのはエキゾチックダイアルといって、文字盤の上部がアラビア数字、下部がローマ数字になっているモデル。これは今でもマニアックな人が探し続けている文字盤のモデルだ。

ぼくのバブルバックは、ケースがステンレス製で,ベゼルと竜頭がピンクゴールド、そして黒い文字盤という、なかなかのハンサムぶりである。修理が終わったら、また毎日のようにこれを着けて暮らすつもりだ。古い機械式時計は、よほどの壊れ方をしない限り、このようにして直すことができることが素晴らしいのだ。クオーツ時計の場合は電子部品を使っており、その進化のスピードについていけず、数年たつと修理不可能になるものもあると聞く。安い時計なら使い捨てでもよいかと考える人もいるだろうが、せっかくの時計を無駄にしたくはないという人なら、機械式に目を向けるようになるのが当然だろう。

1938年9月28日発行の『PUNCH』というイギリスの雑誌に『比類なき時計』というROLEXの広告がある。

ロレックス・オイスター・インペリアル・クロノメーターは、18石のルビー、英国産ステンレス・スティールのオイスター・ケース入り。なおパーペチュアル・モデル(自動巻き)もあり。クロノメーター検定企画を通った時計が、腕時計サイズになったのをご存じでしょうか? 密閉式のケース入りですから、水にも空気にも、そして埃にも強い。そして耐磁性にも優れているのです。それがロレックス・オイスター腕時計であります。それ故に空軍士官クロウストン氏が、ロレックス・オイスターを用いて、記録飛行に挑戦し、またエベレスト登山に際しても採用されました。ロレックスは31の記録を保持しています。

といったコピーで、その優秀さが謳いあげられている。このごく初期の広告が、ロレックスという時計の魅力のほとんどすべてを語り尽くしていると言ってよいだろう。いわば最近人気のラグジュアリースポーツ時計の元祖こそ、ロレックス・オイスターだったわけだ。確かにロレックスは、時間を正確に刻み出し、心臓部であるムーブメントを持ち、それを丈夫なケースで包み込む、優秀極まりない理想の時計だと思う。その信頼感はほかの時計を圧倒しているといっても過言ではないだろう。

POPEYEやBRUTUS誌で時計のことを紹介する文章を書いていたところ、スイスへ行く機会がやってきた。ASAGという時計製造会社のグループが、スイスでの取材をオファーしてくれたのだ。もちろんそのグループ内のロンジン、エテルナ、ラドー、といったメーカーの取材もしたが、ぼくはロレックス・ジャパンの広報の方にお願いして、ロレックスのジュネーブ本社も訪問することができた。

ジュネーブの旧市街と新市街を結ぶモンブラン橋。
1980年代の時計工房で働く時計師たち。

もともとの目的は、創業者のハンス・ウイルスドルフ博士がコレクションしていた、歴史的名品であるブレゲなどの時計を見せてもらいたいということだったが、なんとそれまでめったに取材ができなかったはずの工場のすべてを見学させてくれ、撮影もできるという幸運にも恵まれた。きっとぼくの時計への愛を、時の神様のクロノスが認めてくれたのだと、いまだに思わされる出来事だった。


成功のシンボル
ロレックスは
これからどうなる?

ロレックスを身に着けていたときの話もある。BRUTUSの地中海特集で訪れたモンテカルロのカジノで、運試しにとスロットマシンに1フランを入れ、レバーを押したら、なんと結構な当たりとなって、それを元手にブラックジャックのテーブルに行きしばらく遊んでいると、それもまた勘が冴えたのか、どんどんと勝ち進んでいったのだ。ふとまわりの人々の腕を見ると、なんとそのテーブルでギャンブルしている全員の腕に、様々な時代のロレックスが輝いていたのだった。ロレックスという時計には成功の証のようなところがあり、それぞれの人が、人生のある局面に、それを記念するロレックスを手に入れたのだろう。会社を立ち上げて成功したとき、結婚をしたときなど、それぞれのロレックスには物語が付随しているに違いなかった。

それほどにロレックスは、シンボリックな時計だ。しかしここ数年における、ロレックスに代表される機械式時計の、オークションなどでの高騰ぶりには驚くし、時には首を傾げるようなことも起きている。

1981年に撮影された、オイスター・パーペチュアルのラインナップ。©️三浦順光

ロレックスの場合『コスモグラフ・デイトナ』と呼ばれるクロノグラフモデルが、ある時期からその価格がどんどん上がり、それに煽られた人が殺到するという現象が起きた。最近のブームは、聞くところによると、日本のある人気タレントが身に着けたのがきっかけになったというが、それでなくとも確かに『デイトナ』は魅力的な時計である。

ブームの最初のきっかけは、アメリカの俳優ポール・ニューマンが奥さんから贈られた『デイトナ』が、彼の死後、財団を立ち上げるためにオークションに出品されたところ、なんとオークション開始12分で、20億円もの価格で落札されたことにあった。

これはロレックスファンのみならず、時計に関心のある多くの人々を驚かせることになったが、その後ポール・ニューマンが身に着けていたのと同じ、第一世代の『デイトナ』がたちまち高騰し始めたのだ。ぼくの友人のひとりも、若いころに60万円ほどで手に入れたものが800万円ほどで売れたと言っていたから、本当に人気が過熱したものだと思う。

このように筋のよいロレックスや、様々な高級時計は今や軒並み高価になってしまった。そして新品の価格も、スイスでの時計をつくる技術者の人件費や、原材料の価格の高騰に伴って上がっている。今や時計業界全体がインフレ状態になっているのも、残念だけれど事実だ。

だが最近のニュースによると、ようやくこのロレックスも、供給過剰気味となり、モデルによっては値段が下がる傾向にあるという。ぼくが若い人に言いたいのは、こうしたものを手に入れるためには、時間をかけていろいろと調べてから、手に入れなさいということだ。

よきものは人生を豊かにしてくれる、最良の物言わぬ友なのだから。

2000年頃のバーゼルフェアにおける、ロレックスの二階建てブース。
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